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弱小野球部だった下関国際が“甲子園決勝”にたどり着くまで…“部員5人時代”を知る元ロッテ宮崎敦次の証言「監督の言葉をずっと大切にしてきた」 

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梶原紀章(千葉ロッテ広報)

梶原紀章(千葉ロッテ広報)Noriaki Kajiwara

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photograph byHideki Sugiyama

posted2022/08/23 17:02

弱小野球部だった下関国際が“甲子園決勝”にたどり着くまで…“部員5人時代”を知る元ロッテ宮崎敦次の証言「監督の言葉をずっと大切にしてきた」<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

下関国際高校の野球部監督に就任した当初は、部員集めに奔走していたという坂原秀尚監督

 同級生はわずかに3人。だから、試合に出る機会も多かった。中学時代までは補欠しか経験したことがなかっただけに、とにかく毎日が楽しかったという。

 1年の夏、宮崎は投手や外野手としてプレーした。徳佐高校を11-1で破り、同校12年ぶりに県大会1回戦を突破したが、2回戦ではエラーやバント失敗が重なって、山口高校に0-11でコールド負けを喫した。

 それまでは、ただ楽しんで野球をやっていた。しかし、3年生たちが涙する姿を目の当たりにして、その考えを悔いた。

「あの時に意識が変わった。野球をただ楽しんでやっているだけでは駄目だと。上級生が泣いている姿を見てそう思いました。自分の甘さを反省し、必死に全力で野球と向き合って、取り組んでいかないといけないと思った」

新チーム始動は5人「弱者が強者に勝つ」

 新チームは上級生2人に加え、宮崎の学年が3人。野球部の存続も危ぶまれていた。新1年生が入ってくるまではたった5人での練習。それは寂しく、心細いものだったに違いない。

 しかし社会人野球チーム、ワイテックにて投手経験があり、高校球児の指導に燃える坂原監督はそんな宮崎たちを励まし、常に前を向かせた。

「弱者が強者に勝つ。だから人生は面白いんだ」

 監督の口癖だった。坂原監督はいつもそうやって、生徒たちに熱く語りかけていた。

 野球エリートを集めた名門チームとは違い、設備もなければ、野球ボールも数えるくらい。野球をするだけでも精一杯のチーム。その中でいかに勝つかを考えて練習を繰り返した。

 投手としての練習は、投げ込みよりも走り込みが中心だった。30キロ以上の土のうを背負ってのスクワットなど地道なトレーニングで下半身を強化していった。坂原監督は、体が小さい宮崎に工藤公康氏の映像を渡してフォームを参考にするように勧めたという。

【次ページ】 「まさかプロ野球選手が先に出るとはね」

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