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弱小野球部だった下関国際が“甲子園決勝”にたどり着くまで…“部員5人時代”を知る元ロッテ宮崎敦次の証言「監督の言葉をずっと大切にしてきた」 

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梶原紀章(千葉ロッテ広報)

梶原紀章(千葉ロッテ広報)Noriaki Kajiwara

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photograph byHideki Sugiyama

posted2022/08/23 17:02

弱小野球部だった下関国際が“甲子園決勝”にたどり着くまで…“部員5人時代”を知る元ロッテ宮崎敦次の証言「監督の言葉をずっと大切にしてきた」<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

下関国際高校の野球部監督に就任した当初は、部員集めに奔走していたという坂原秀尚監督

 そんな坂原監督に鍛えられた選手たちは、新入生が加わった夏に県ベスト8進出。最後の夏は県ベスト16で涙を飲んだが、入学当初は120キロだった宮崎のストレートは138キロにまで到達していた。

「本当に自分は高校から野球を始めたようなものです。一から教えてもらった。自分でも毎日、成長しているのが分かった。それはやりがいがあった」 

 宮崎が巣立ったあと、坂原監督の熱意は徐々に実を結び、部員数は飛躍的に増えていった。広島国際学院大学に進学した宮崎も、大学リーグで最優秀選手賞を受賞し、スカウトに注目される存在となった。

 マリーンズにドラフト指名された時、一番に報告をしたのは坂原監督だった。

「マジか! まさか下関国際高校からプロ野球選手が先に出るとはね。次は甲子園初出場だ!」

 熱血監督はそう言って心から喜んでくれた。

グラブに刻んだ監督の名前

 プロ入りを控えた14年12月。プロで使用するグラブを新調した宮崎は、メーカーの担当者に刺繍で文字を刻むことを勧められた。四字熟語のような文字は思いつかなかったが、悩んだ宮崎は「坂原」と入れた。

 自分を野球の世界に入れてくれた恩人のことをいつまでも忘れないために。そして野球と人生のイロハを教えてくれた恩師の名前をそこに明記することで、いつも原点を忘れないようにしたいとの思いからだった。

 下関国際高校は2015年に春季県大会で初優勝を飾ると、夏の山口大会では決勝まで勝ち進んだ。そして17年に甲子園に出場を決めた。翌18年には春夏連続出場を果たし、特に100回記念大会となった夏は甲子園初勝利を挙げると、全国8強と飛躍した。そして2022年夏、全国制覇こそ逃したものの、準々決勝では優勝候補と呼ばれた大阪桐蔭高校を破るなど、見事な戦いぶりを見せた。

 新入生に野球経験者はいないかと片っ端から電話をかけていたチームが、高校野球の頂点を掴みかけたというのだから、感慨深い。

【次ページ】 入団会見でも監督の教えを口にした宮崎

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