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“沖縄出身プロ野球選手のパイオニア”が母から言われた「おまえは一回、死んだ身じゃ」…カープOB安仁屋宗八が「8月6日」に思うこと
text by

渋谷真Makoto Shibutani
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/08/06 06:00

カープや阪神で活躍した安仁屋宗八さん。沖縄出身初のプロ野球選手として知られるレジェンドの半生とは
すでに米軍に制海権は握られており、艦船に遭遇したり、敵機に発見されれば小さな船であっても攻撃を受ける。進むのは日暮れから夜明けまで。星空を頼りに九州を目指した。ようやくたどり着いた大分も、決して安全な場所ではなかった。すでに空襲にさらされていた。
「防空壕が崩れて僕は埋まったらしい。まだ赤ん坊だし、もうダメじゃろう……と。その時に、おふくろが土の中から赤い服が少し出ているのを見つけたんです。服なんかない時代でしょ? 姉の赤い服を着ていたのが、目立って良かった。母にはよく言われたものです。『おまえは一回、死んだ身じゃ』って」
沖縄脱出の半年後には、米軍が沖縄本島に上陸している。どこにいても安全が保証されるわけではなかっただろうが、決死の航海は結果として一族全員の命を守った。
3年夏に甲子園出場。旅に必要だった「パスポート」
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終戦後は沖縄に戻ったが、米軍統治下となっていた。「お金は中2までB円(B型軍票)で、そこからドルでした」。戦争の傷跡が深く残る故郷で、気がつけば野球をやっていた。もちろん道具は手作り。腕を磨き、沖縄高校(現沖縄尚学)3年夏の甲子園に出場した。4年前に首里高校が、県勢として初めて出場していたが、記念大会の恩恵を受けての「1県1代表」。宮崎県との南九州大会を勝ち上がり「初めて実力で出た」と県民は熱狂した。
「沖縄ではよく『甲子園で1勝するのが先か、大臣が出るのが先か』なんて言われていたんです。たまたま野球が先になったけど、自分たちは勝つか負けるか考えたこともなかった。とにかく(先の疎開を除けば)本島から出たことがなかった。船で鹿児島へ行って、汽車で宮崎に行った。大きな船も汽車も初めてよ。それが楽しみでねえ……」
もちろん旅にはパスポートが必要だった。出場権を得ると、沖縄には帰らずに甲子園へ。広島の強豪・広陵高と戦って敗れたことは、安仁屋さんのその後の人生を思えば縁があったのだろう。