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“沖縄出身プロ野球選手のパイオニア”が母から言われた「おまえは一回、死んだ身じゃ」…カープOB安仁屋宗八が「8月6日」に思うこと
posted2022/08/06 06:00
text by
渋谷真Makoto Shibutani
photograph by
BUNGEISHUNJU
多くの広島県民がそうするように、その日、その時刻に祈りを捧げてきた。
「そう。8月6日の8時15分にね。絶対にやっています。たとえどこにいようとも、広島の方角を確かめて、手を合わせてきました。それだけは欠かしたことがないですね」
静かに語ったのは安仁屋宗八さん。広島、阪神の中心選手として、通算119勝を挙げた右投手である。8月17日には78歳となるが、今もカープのご意見番として解説や評論活動を続けている。
現役時代、遠征日だった「8月6日」
セミが鳴く頃になると、広島市内の平和記念公園付近では式典の準備が始まる。安仁屋さんにとっては散歩コースでもあり、日に日に清掃や設営が進んでいくことを実感するのだが、現役時代は式典を見たことはなかったはずだ。8月6日はカープが遠征に出る日と決まっていたからだ。だから「どこにいようとも広島の方角を確かめて」いた。カープが8月6日に本拠地で試合を開催したのが2011年。実に53年ぶりのことだった。今年は阪神戦。「ピースナイター」と銘打つことで、平和の尊さを世に訴えている。
安仁屋さんの妻・美和子さんは戦後生まれだが、その母はあの日、爆心地から1.5kmほどの場所で被爆している。原爆がもたらす悲しみや苦しみを、生の言葉で聞き、感じてきたのだ。世界で初めて原爆が投下された広島。日本で唯一、地上戦が行われた沖縄。この2つの語り部となれる野球人は、安仁屋さんをおいて他にはいない。
沖縄戦の半年前に九州へ…「命がけの疎開」
1944年8月、安仁屋さんは那覇で生まれた。したがって戦争の記憶は残っていないが、何十回、いや何百回と両親から聞かされた。生後2カ月ほどで、父は大きな決断をした。父母と8人の子供、親戚2人を乗せ、戦火が激しくなっていた沖縄を離れ、九州へと疎開した。漁師だった。小さな船を持っていた。とはいえ12人の航海の安全は、全く保証されていない。
「昼間は小さな島の陰や、ちょっとした洞窟に隠れていたそうです。夜だけしか航海できないんよ。1人も死なずに、よく生きていたと思います」