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“沖縄出身プロ野球選手のパイオニア”が母から言われた「おまえは一回、死んだ身じゃ」…カープOB安仁屋宗八が「8月6日」に思うこと 

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渋谷真

渋谷真Makoto Shibutani

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2022/08/06 06:00

“沖縄出身プロ野球選手のパイオニア”が母から言われた「おまえは一回、死んだ身じゃ」…カープOB安仁屋宗八が「8月6日」に思うこと<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

カープや阪神で活躍した安仁屋宗八さん。沖縄出身初のプロ野球選手として知られるレジェンドの半生とは

プロ入りを説得した“あるスカウト”

 社会人野球の琉球煙草に進み、野球を続けた。ドラフト施行前。いくつもの球団が誘ってきたが、プロに行く気はなかった。

「話すのが下手で食べ物も合わん。今は『方言を使え』って教えられるけど、あの頃は『標準語をしゃべれ』。沖縄では海藻がメーンだったけど、特にダメだったのが卵焼き。沖縄では味の素と塩を少し入れるだけなのが、こっちのは砂糖入りで甘い。吸い物の味も薄くって」

 断固拒否。しかし父が唯一、心を許したのが広島のスカウトだった。選手兼任のフィーバー平山(智)。日系二世のため、パスポートを持っていた。他球団がなかなか沖縄に足を運べない中、安仁屋家を訪問。自らも言葉や食事に苦労したからだろう。安仁屋親子にこう言った。

「絶対に自分が面倒を見る」。これが決め手だった。安仁屋さんは言う。「平山さんじゃなかったら、プロには入ってなかったかもしれん」。お本土に渡ってしまえば家族と話すのも国際電話。今とは何もかもが違う環境になんとか耐えられた恩人である。

 入団したのが、前回の東京五輪が開催された1964年。5年目には生涯最多となる23勝を挙げた。沖縄県民にとって特別な1972年5月15日は、広島に住んで9年目のことだった。

【次ページ】 「沖縄から出てくる選手は、みんな応援しとるんよ」

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