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将棋PRESSBACK NUMBER
「ぼくのゆめは、しょうぎ名人だ」小学校3年での決意を21歳で現実に…「中学生棋士」谷川浩司と藤井聡太に共通する“母親の支え”
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/06/15 11:00
若き日の藤井聡太五冠と谷川浩司九段には共通点があったという
何でも「谷川をつぶす会」なるものがあり、先輩の奨励会員たちは敵愾心をむき出しにして戦ったという。
谷川は中学生になると、体が成長するとともに、将棋も大きく伸びた。ハイペースで昇進していった。
“13歳の谷川初段”が記録係を務めた
1975年9月に私こと田丸五段は、新人王戦の準決勝で森安秀光六段と対戦した。関西本部での対局で記録係を務めたのは、13歳の谷川初段だった。写真は、谷川が書いた記録用紙。
谷川の師匠の若松五段の弟弟子に当たる森安は振り飛車党で、三間飛車の戦法を武器に活躍していた。谷川も当時は三間飛車をよく指していて、盤側で勉強したいと思ったのだろう。なお森安-田丸戦は激闘の末に、田丸が終盤で寄せの好手を逃して敗れた。谷川はその手をたぶん分かっていただろう。
谷川は1976年12月、四段に昇段して14歳8カ月で棋士になった。加藤一二三・九段に続いて、2人目の「中学生棋士」だった。
師匠の若松五段は谷川の将棋について、「攻守にバランスがとれた将棋で、どちらかというと攻めの棋風。終盤はしっかりしています。読みが正確で、勝負強いです」と評した。
谷川は1977年度から、名人戦の予選リーグの「順位戦」に参加した。早くも名人候補の呼び声が高く、抜群の成績を収めて昇級を重ねた。1980年度のB級2組では10戦全勝で昇級(私こと田丸六段も9勝1敗で昇級)。1982年には最上位のA級に5期目で昇級した。そんな谷川でも、C級2組順位戦で苦い経験をした。
1期目のC級2組順位戦で8勝2敗の成績だったが、同成績順位下位によって昇級できなかった。2期目は7連勝し、残り3局のうち1勝で昇級となった。しかし、気持ちの緩みがあったのか2連敗し、東京での最終戦を迎えた。「これで負けたら、もう神戸には帰れない」という悲壮な思いで対局に臨んだ。対戦相手はベテラン棋士の関屋喜代作六段。成績不良でいわば消化試合だった。
「地獄」というものを初めて見た思いです
関屋は決断の良い棋風で、谷川戦でも早指しで攻め込んでいった。一方の谷川は緊張感から適切に対応できず、相手の勢いに押されていつしか不利に陥った。
関屋は終盤の局面で記者室に現われると、「△6六銀で勝ち」と言ったという。しかし、実戦では別の手を指した。以後は難しい攻防が続き、谷川が寄せ合いを制して勝った。
関屋は△6六銀で勝ちと承知していて、なぜ指さなかったのだろうか。前途ある天才少年の芽を摘みたくないと思ったのか、それとも本譜の読み筋に誤りがあったのか……。
谷川は関屋との対局について、後年に自戦記で次のように書いた。