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《追悼》イビチャ・オシム「知人の死を新聞の死亡告知欄で知るのは感慨深い」濃密な時を過ごした記者が、告別式出席直前に追想する14年に及ぶ対話
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph byaflo
posted2022/05/11 11:04
日本代表で指揮を執りはじめた2006年のオシム。81歳の誕生日5月6日を目前にして、1日に心臓麻痺で亡くなった
インタビュー当日は、予約したホテルの部屋のテーブルに、雑誌や新聞、資料を並べておく。部屋に入ったオシムはそれらを無造作に手に取り、5分、10分と黙って読んでは感想を言う。それがインタビュー前の恒例行事でもあった。
あるとき、彼がこう言ったことがあった。
「知人の死を新聞の死亡告知欄で知るのは感慨深いものがある」と。
そのとき彼が見ていたのは、地元ボスニアの新聞だった。そこには毎日3~5ページの死亡告知欄がある。ひとり写真付きで10行程度だが、多いときは同じ告知を5回とか10回とか並べてある。故人を偲ぶ哀悼の意の強さを示すひとつの指標にはなるのだろう。その欄を見ながら、オシムは上記の言葉を漏らしたのだった。
返す言葉は何もなかった。当時の私は、母親をすでに亡くしていたものの、オシムの問いともつかない問いに答えるべき言葉など何も持たなかった。早くインタビューを始めたい。そんな気持ちだけが焦燥とともに紡がれていたのだった。
初回のインタビューでは取材テーマには触れない。こちらがどんな質問を投げかけようとも、オシムが自分の言いたいことを一方的に1時間半ないし2時間話して終わる。言いたいことを喋り終えて帰ろうとする彼に、用意した資料と質問表を押しつけて持ち帰らせるのが常だった。
到達できなかった心の奥底
仕方なしにという様子で持ち帰った資料を、彼はどのぐらい見たのだろうか。ひとつわかるのは、オシムがどれほどそれらの文書を精読したかどうかにかかわらず、彼がもの凄く深く考えて次のインタビューに臨んだことである。
オシムの背中を見ながら、彼に追いつくことしか考えていなかった。あるいは一度でいいから、彼の心の奥底の最もディープなところに到達したいと。私にとってのオシムは、それほどまでに巨大で超えがたい存在だった。それは彼と接した日本のサッカー関係者すべてに共通する思いだろう。
オシムは常に真摯だった。こちらが全力でぶつかっていったからこそ、彼も全力で応えてくれた。もう同じことはできない。私の中のオシムとの対話はこれからも終わることはないが、今はそのことが悲しい。
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