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《追悼》イビチャ・オシム「知人の死を新聞の死亡告知欄で知るのは感慨深い」濃密な時を過ごした記者が、告別式出席直前に追想する14年に及ぶ対話
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph byaflo
posted2022/05/11 11:04
日本代表で指揮を執りはじめた2006年のオシム。81歳の誕生日5月6日を目前にして、1日に心臓麻痺で亡くなった
それでもサラエボに無事に入ることができればまだよかった。ところが今度はパリからサラエボに向かう朝、空港行きの電車の中でパスポートを掏られてしまう。これまで幾度となく掏摸の被害にあったが、掏られる際はほぼ常に身体的な接触があった。ところが今回はまったく気づかず、空港でチェックインの際にはじめてパスポートがないことがわかり、慌てて探したものの見つからなかった。絶望的な無力感につつまれながらパリ市内に引き返した。
冷静なつもりでも、私はパニくっていて正常ではないのかもしれない。それとも何か大きな力が、私のサラエボ行きを阻止しようとしているのか。そんなことを思わずにはいられない一連の出来事だった。
オシムの取材を現地で定期的におこなっていた2008年から2016年の間——その後も今日まで電話取材は続けてきたが——、サラエボにせよグラーツにせよ1回の取材にほぼ1週間をかけていた。その間に1時間半から2時間のインタビューが2~3回とインタビュー後の1~2回の食事。アシマ夫人が予約したレストランで食事をする間も――それがサラエボで最も由緒あるシックな店であろうと、またクルバビッツァのスタジアムに隣接した元選手が営む庶民的な店であろうと、話はほぼサッカーのことばかり。要は延長戦である。サッカーだけを語りあう濃密な時間をオシムと過ごした。それがオシムと私の触れ合いだった。
だが、今回は、オシム不在の初めてのサラエボ。サラエボを訪れるのも、もしかしたらこれが最後になるかも知れない。そうであるからこそ、告別式までの1週間を彼とのさまざまな思い出とともに静かに過ごしたかったのだが……。
対話の作法
取材の経路は、目的地がグラーツであれサラエボであれ常にパリ経由だった。まず成田空港のラウンジで、置いてあるレキップ紙とレキップマガジン紙を手に入れる。パリに到着するとフランス・フットボール誌編集部でバックナンバーまで含めた同誌を頂戴する。編集部に寄れないときはキオスクで他のサッカー雑誌もあわせて買う。他にもお土産はいろいろ持って行ったが、オシムが喜んだのはレキップ紙とフランス・フットボール誌だった。
自らはインターネットにアクセスできない。身体が利かずに付き添いなしの自由な外出もままならず、得られる情報は限られている。そんな中で、ヨーロッパで最もクオリティが高いといわれるフランスのメディアは、オシムにとっては情報を得るうえでも物を考えるうえでも絶好のマテリアルだったのだろう。