ワインとシエスタとフットボールとBACK NUMBER
《追悼》イビチャ・オシム「知人の死を新聞の死亡告知欄で知るのは感慨深い」濃密な時を過ごした記者が、告別式出席直前に追想する14年に及ぶ対話
posted2022/05/11 11:04
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph by
aflo
訃報を知らせてきたのは若い友人だった。日本時間の5月1日午後11時。シュトルム・グラーツからイビチャ・オシムの訃報が発表されたという。事態を理解するまでに時間がかかった。やがて悲しみが込み上げてきたが、その後多くの電話が入り涙は会話で途切れた。気持ちを落ち着かせてグラーツのオシム宅に電話をしたのは、最初の知らせから1時間ほどたったときだった。
電話にはいつものアシマ夫人ではなく、グラーツで同居する次男のセルミルが出た。混乱し、興奮気味の私に、セルミルは淡々と説明した。前日までは普通に過ごし、夜に少し体調を崩したものの普通に寝たこと。家族のだれも気づかず朝起きたら亡くなっており、医師の正確な診断を仰がねばならないが恐らくは心臓麻痺であったこと。告別式はおそらく一週間後にグラーツではなくサラエボで行われるであろうことを、セルミルは私に落ち着いて語った。
長男のアマルはサラエボに残っていたが、たまたま長女のイルマはグラーツに滞在中で、亡くなる瞬間には立ち会えなかったものの、その場に居合わせることができたのは数少ない不幸中の幸いだった。アシマ夫人のためにも、イルマが傍にいるのはよかったと思った。夫人にくれぐれもよろしく伝えてくれと言って、セルミルとの電話を終えた。
久々のサラエボ行き
心を落ちつけ、電話をくれた友人たちに状況を伝えた後で、サラエボ行きの航空便と現地のホテルを予約した。日本を発ったのは5月5日。まだ告別式の日取りは決まっていなかった。だがセルミルの言葉通りなら、週末の7日か8日になる。その後は一週間パリに滞在することにして、日程に余裕をもたせた。後ろにずれ込んでも、パリ滞在を短くすればいいと。
5月9日現在、本来なら7日(土)にサラエボ入りするはずだった私はまだパリにいる。まずエールフランスのサイトでチケットがなぜか取れず、別のサイトで購買した際に間違えて1日前のものを買ってしまった。パリ直行便ではなく、羽田−関空−パリ便である。そして関空では、パソコンを自宅に忘れてきたことに気づいた。98年フランスW杯の際に、ワープロを忘れて以来のことである。
この原稿は、パリの友人から借りたパソコンで書いている。友人曰く使い勝手が悪く、油断すると文章が消えてしまう恐怖と闘いながら。