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なぜ日本人はNBAに夢中になったのか? “仕掛け人”が語る「満員のジャパンゲーム」と田臥&渡邊が魅了されたスーパースターたち
text by
宮地陽子Yoko Miyaji
photograph byNBA/Getty Images
posted2022/02/28 11:00
東京ドームで開催された1996年のNBAジャパンゲーム
「当時のNHKスポーツ部長さんから『NBAは小学1年生から80歳のおばあちゃんまで多数のファンレターが来る。NBAこそ、NHK的コンテンツだ』と言われました」と加藤は振り返る。
当時の中継は、MLBやNFLと重ならない時期に週4回、重なるときは週2回。中継カードも工夫した。
「NBAのチームがまだ知られていなかった11月、12月、1月の3カ月間は、顔見せのような形で各チーム均等に放映されるようにしました。週4回放送になった2月と3月は人気選手のチームを集中的に放送。あの頃はマイケル・ジョーダン(当時シカゴ・ブルズ所属)とかチャールズ・バークリー(当時フィラデルフィア・セブンティシクサーズ所属)が人気で、その2人の試合が交互に中継されるような感じでした。4月はプレイオフに出そうなチームの試合を集中してピックアップしていました」
ジャパンゲーム開催、苦労した会場選び
同時にジャパンゲームの開催も計画し、進行させた。実は当初、NBAとしてはヨーロッパで開催されていたマクドナルドオープン(NBAチームと現地のクラブチームの間の試合)を日本でも開催したいという意向だった。NBA人気を広める一方で、現地の才能ある選手のスカウティングにもなる。しかし、当時の日本には、NBA選手と互角に対戦できるような選手がおらず、チームもなかった。そこでNBAチーム間の試合を開催する案が浮上。それなら本番の試合がいいと交渉し、開幕戦が開催されることになった。
苦労したのが会場選びだった。当時の日本には、まだNBAの試合ができる会場がほとんどなかったのだ。
「代々木オリンピックプールも老朽化しているので、仮設の床をプールに敷いても不安がある。国技館、日本武道館は四角い競技用なので、長方形のバスケだと見切れ席が出てしまう」
そこで目をつけたのが、当時改築中で、1990年に再オープン予定だった東京体育館だった。都庁に何度も足を運んで交渉した。最初は「担当者すら決まっていない」と相手にされず、その後も「他の予定が決まっている」と玄関払いされたりしたが、粘り続け、使用許可を取得した。フェニックス・サンズとユタ・ジャズが来日し、1990年11月2日と3日に開幕戦2試合を行った。アメリカのメジャースポーツが、北米大陸以外で公式戦を行ったのはこの時が初めてだった。
「この試合の日本国内での中継はBSではなく、地上波のNHKでした。収容1万席の東京体育館が満杯になったのを見て驚いたアナウンサーの方の『日本にこんなにバスケットボールファンがいたんですね』という一言から放送が始まりました」と加藤。
その後92年のバルセロナ五輪でのドリームチーム人気、マイケル・ジョーダン人気、バスケットボール・シューズ人気で、1990年代は日本の中にNBAカルチャーがなだれ込んできた時期だった。ジャパンゲームも約2年おきに開催され、1996年には東京ドームに4万人近い観客を集めた。