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33年前、東京ドームのこけら落としはマイク・タイソンだった?…では東京ドームで最初に投げた“意外な”ピッチャーは? 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/06/22 17:00

33年前、東京ドームのこけら落としはマイク・タイソンだった?…では東京ドームで最初に投げた“意外な”ピッチャーは?<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1988年03月21日、東京ドームで行われた世界ヘビー級タイトルマッチ「マイク・タイソン対トニー・タッブス」。2回KOでタイソンが勝利した

 リキ・スポーツ・パレスが使えなくなったことで、日本プロレスは代用として後楽園ホールを頻繁に使用するようになったのだ。ここから「プロレスの拠点・後楽園ホール」のイメージが付いたのである。

 もし、手放していなければ、プロレスが後楽園ホールを常打ち会場にすることは、もう少し先の話だったか、もしくはなかったのかもしれない。とすると、あの膨大な落書きも、ああまで書かれることはなかったのではないか。

“真空飛び膝蹴り”沢村忠が後楽園ホールを使えなかった事情

 ボクシング、プロレスと並んで、現在まで頻繁に興行が行われているのがキックボクシングである。初の興行は沢村忠の所属する野口プロモーションかと思いきや、実際はそうではない。後発団体の協同プロモーションの旗揚げ興行「タイ式ボクシング無料公開試合」(1968/9/15)だった。メインイベントは、協同ジム所属の嵐五郎がクンスク・カチャーピットに3R終了間際にKO勝ちを収めている。この嵐五郎の正体は第5回極真空手全日本王者で、現在は極真空手道連盟・極真館を主宰する盧山初雄である。

 ではなぜ、キックボクシングの第一人者である沢村忠が、キックの初お目見えとはならなかったのか。そこにはテレビ局の思惑が大きく影響していた。

『笑点』や『欽ちゃんの仮装大賞』の収録会場でもある後楽園ホールは、それ以前から『スター誕生!』『コラーッ!とんねるず』など多くの日本テレビの番組と所縁が深い。協同プロが野口プロより早く使用したのも、日本テレビのコンテンツだったからだ。TBSと専属契約を結んでいた野口プロは、大人気の沢村忠を擁しながら「使用できないように妨害された」(当時の野口プロの関係者)こともあり、初お目見えは1969/1/4まで待たねばならなかったのである。

 続いては、ビッグマッチが幾度となく繰り広げられてきた、東西の大会場のこけら落としと初お目見えについて触れてみたい。

(【続きを読む】辰吉丈一郎が“5年ぶり試合”で無敗王者を眠らせた&放火騒ぎで新日本プロレスは3年間出禁「城ホールと横アリの伝説」 へ)

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