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33年前、東京ドームのこけら落としはマイク・タイソンだった?…では東京ドームで最初に投げた“意外な”ピッチャーは?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph bySankei Shimbun
posted2021/06/22 17:00
1988年03月21日、東京ドームで行われた世界ヘビー級タイトルマッチ「マイク・タイソン対トニー・タッブス」。2回KOでタイソンが勝利した
こけら落としは、当然ボクシングの興行が行われた。「報知ダイナミック・グローブ・高山一夫対オスカー・レイス」(1962/4/16)で、発起人の田辺宗英が他界して5年後のことである。ちなみにこの時期の名称は「後楽園ジムナジアム」だった。
なお、プロボクシング以外で初めて行われた興行は、全日本空手競技連盟(日本拳法空手道)主催「第一回拳法空手競技大会」(1962/10/29)。グローブをはめて戦う現在のキックボクシングと似たスタイルながら《一ラウンド3分で3ラウンド行ない、その結果判定、技術(※極め・絞めによる一本)、反則、打倒(※KO)と四種類の規定で勝敗がきまる》(1962年10月31日付/東京スポーツ ※は筆者)と記事にもあるように、現代のM・M・Aと近似したルールで行われていたことは、もっと周知されるべきだろう。
なぜプロレスも後楽園ホールを使うようになったか
後楽園ホールというと、プロレスの印象が強いという人も多いかもしれない。今や名物ともなった階段の落書きも、大半がプロレスファンによるものだからだ。プロレス興行の初お目見えは日本プロレス「冬の陣第2戦」(1966/11/25)で、メインイベントは「ジャイアント馬場対ルイス・ヘルナンデス」。1963年に他界した力道山は後楽園ホールのリングに上がっていないことになる。
意外なのは1962年のオープンから4年も経っていることだ。なぜ1966年になって、日本プロレスは後楽園ホールを使用するようになったのか。そこには当時の日本プロレスの逼迫した経営状況が背景にあった。
この時代の日本プロレスの常打ち会場は、渋谷のリキ・スポーツ・パレスだった。創始者の力道山が手掛けた総合レジャー施設だが、思いのほか力道山は莫大な負債を抱えたまま他界したため、程なくしてリキ・スポーツ・パレスは抵当に入ってしまっていた。そこで、日本プロレスはあえなく手放したのである。