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トルシエ「井原が席を立つまで部屋に戻るな」“型破りすぎた”名将は日本サッカー界に何を残したのか?【66歳に】 

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戸塚啓

戸塚啓Kei Totsuka

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photograph byKazuaki Nishiyama

posted2021/03/21 11:04

トルシエ「井原が席を立つまで部屋に戻るな」“型破りすぎた”名将は日本サッカー界に何を残したのか?【66歳に】<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

本日3月21日はフィリップ・トルシエの66回目の誕生日だ

トルシエに怒鳴られ帰ってしまった選手も

 選手やメディアを意図的に刺激するような言動は、その後も続いていく。99年6月のキリンカップでベルギー、ペルーと引分けると、「ナイジェリアのワールドユースで準優勝したのは、選手の技術的なクオリティが高かったから。フル代表はボールをどうやって運ぶのかがまだうまくない。うまく運べるのは中田(英寿)だけだ」と言い放った。

 99年4月に開催されたワールドユースで、日本はFIFA主催の国際大会で史上初の決勝進出を果たしていた。キャプテン小野伸二が出場停止だった決勝はスペインに完敗したが、小野、高原直泰、本山雅志、稲本潤一、遠藤保仁、小笠原満男、中田浩二らの黄金世代が、日本サッカー未踏の領域へ到達したのだった。

 トルシエはフル代表の監督を務めるだけでなく、2000年開催のシドニー五輪を目ざすチームも指揮していた。小野らを強化していけば、五輪はもちろん02年の日韓W杯にもつながっていく、との手応えを感じていたのだろう。

 しかし、フル代表の選手からすれば面白くない発言である。「U-20とフル代表で公開の練習試合をやって、どっちが強いかをみんなの目の前ではっきりさせたらいい」と、反発を隠さない選手もいた。

 トルシエの周囲には、軋轢が絶えなかった。JFAの上層部とも何度もやり合っていた。練習中にトルシエから「出ていけ!」と怒鳴られた選手が、そのまま出ていったこともあった。遠征先から帰国した選手もいた。山本昌邦コーチがいなければ、チームがバラバラになっていた瞬間さえあった。

「500ページのうち200ページぐらいまで進んでいる」

 解任騒動に揺れたのは2000年春だ。2年契約の満了が近づいているタイミングで、3月に中国と引分け、4月に韓国に敗れてしまったのである。スポーツ紙は1面で解任を報じるが、後任とされたベンゲルが就任を否定し、トルシエの周辺はひとまず落ち着く。しかし、02年までの時間が保証されたわけではなく、6月に行なわれるハッサン2世杯とキリンカップに去就が委ねられる。

 ここでトルシエは結果を残した。モロッコを舞台とした大会で、当時の世界王者フランスと2対2のドローゲームを演じ、98年のW杯で敗れたジャマイカに4対0でリベンジした。帰国後はスロバキアと引分け、ボリビアに2対0で勝利した。ボリビア戦後、トルシエは自信満々に話した。

【次ページ】 「監督に就任したばかりの頃は、ずいぶん戸惑った」

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