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トルシエ「井原が席を立つまで部屋に戻るな」“型破りすぎた”名将は日本サッカー界に何を残したのか?【66歳に】
posted2021/03/21 11:04
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph by
Kazuaki Nishiyama
エキセントリックかつ型破りな性格で、いつも周囲を振り回していた。上から目線に辟易させられたが、どこか憎み切れない──フィリップ・トルシエとはそんな存在だった。
ベンゲルの推薦で代表監督に就任
1955年3月21日生まれのトルシエは、43歳当時の98年10月に来日した。フランスW杯後に退任した岡田武史監督の後を継いで、日本代表監督に就任した。
日本サッカー協会(JFA)にとって、意中の人材ではなかった。JFAは岡田監督に続投を要請するも固辞され、名古屋グランパス元監督のアーセン・ベンゲルにアプローチする。しかし、ベンゲルはアーセナルでの仕事に大きなやり甲斐を見出していた。自らが就任できないかわりに、同胞のトルシエを推薦してきたのだった。
日本が初出場したフランスW杯で、トルシエは南アフリカ代表監督を務めていた。コートジボワール、ナイジェリア、ブルキナファソの代表監督を務めていたから、プライドもあったのだろう。まあとにかく、高圧的だったのである。
初対面から嵐が吹き荒れた。
98年10月1日、J-ヴィレッジで初めての日本代表トレーニングキャンプが行なわれた。初日の練習は午前11時開始予定だったが、早朝7時からに変更された。トルシエの心変わりが理由だった。
練習は昭和の時代の部活のようだった。選手が思い通りに動かないと、トルシエはボールを投げつけた。あげくに罰走を科した。メディアの前を走らされる選手たちは、ひどく居心地の悪そうな表情を浮かべていた。
ピッチ外にも厳格な規律が持ち込まれた。食事後は選手がバラバラに解散するのではなく、主将の井原正巳が席を立つまで誰も部屋に戻れないルールだった。公共のスペースで携帯電話を使ったり、新聞を読んだりすることも禁止された。
メディアには授業を開いた。記者を講堂に集め、1時間以上も熱弁をふるった。「私には500ページの教科書がある」と胸を張った。