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トルシエ「井原が席を立つまで部屋に戻るな」“型破りすぎた”名将は日本サッカー界に何を残したのか?【66歳に】
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2021/03/21 11:04
本日3月21日はフィリップ・トルシエの66回目の誕生日だ
「選手たちには色々なことを教えており、500ページのうち200ページぐらいまで進んでいる。協会が契約の更新を希望するなら、私を待たせるとか、マスコミの間で騒ぎを起こすのは良くない」
2日後、トルシエの続投が発表された。
「監督に就任したばかりの頃は、ずいぶん戸惑った」
ここから先は右肩上がりである。9月のシドニー五輪でU-23日本代表がベスト8入りすると、10月のアジアカップではフル代表が2大会ぶり2度目の優勝を飾る。98年フランスW杯出場のGK川口能活、MF名波浩、森島寛晃らにシドニー五輪出場の中村俊輔、稲本、高原らを加えたチームは、「大会史上最強」とうたわれるほどの強さを見せつけた。ローマ所属の中田英寿不在で勝ち取ったタイトルは、トルシエが代名詞とする「フラット3」と3-5-2のシステムが、国際的な水準まで成熟してきた証だっただろう。
アジアから世界へ飛び出した01年は、敵地パリでフランスに0対5の衝撃的大敗を喫した。しかし、5月末開幕のコンフェデレーションズカップで準優勝した。11月にはイタリアとホームで引分けた。
日韓W杯が近づいていくなかで、トルシエの周辺からは雑音が消えていった。JFAや選手との衝突の火種が、完全に鎮火されたわけではない。それでも、お互いが歩み寄る場面は増えていた。のちにトルシエは、自身の変化を口にしている。
「監督に就任したばかりの頃は、ずいぶん戸惑った。私からすると『それはちょっと違う』ということ、すぐには受け入れられないことが多かった。自分のメッセージをダイレクトに発信して、周りの感情を逆撫でしたこともあったかもしれない。けれど、結果がついてきたこともあって、協会もサポートしてくれた。私の主張をすぐにはねつけるのではなく、いい意味で違った意見として受け止めてくれるようになったんだ」
日韓W杯を前にした国内の盛り上がりは、スポーツイベントの枠を超えていた。代表監督にかかるプレッシャーは、計り知れないものがあっただろう。ときにエキセントリックな言動は、トルシエに必要な“ガス抜き”だったのかもしれない。
日韓W杯ベスト16も「日本人の良さが発揮されたのか」
アジア初にして史上初の共催となった日韓W杯で、日本はグループステージを2勝1分の首位で通過した。ホスト国のノルマとされるベスト16入りを達成したのは、間違いなくトルシエの功績である。日本に縁もゆかりもなかったこのフランス人は、日本サッカーのために力を尽くしてくれた。それは間違いない。
ただ、共催のパートナーがベスト4まで勝ち残ったことで、物足りなさが膨らんでいったのも事実である。トルシエは「決勝トーナメントからはすべてボーナスだ」と解放感に浸ったが、韓国の指揮官フース・ヒディンクは「我々の挑戦はこれからも続く」と宣言した。ベスト16とベスト4という結果に、指揮官の熱量の違いを読み取るのは酷だっただろうか。日本が0対1で敗れたトルコがベスト4まで勝ち上がったことも、消化不良の思いが追いかけてきた一因だった。