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大津→福岡大のサッカーエリートが陸上へ異例の競技転向「違う道もあるんだぞ」胸に響いた名将の言葉
posted2020/12/03 17:02
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Krosakiharima Athletics Club
高校サッカー選手権予選が行われていた長崎を訪れた11月3日。取材を終え、何気なくテレビをつけると見覚えのある顔が映っていた。
「黒崎播磨」と書かれたユニフォームで走る、ある選手に目が留まった。5年前、九州の強豪校・大津高校サッカー部にいた河田健太郎である。
中継の映像には「第57回九州実業団毎日駅伝」とテロップが入っている。毎年元旦に行われる社会人駅伝の最高舞台、ニューイヤー駅伝の九州予選だった。実業団上位8チームが出場権を得ることができる重要な大会で、河田は6区を任されていた。区間7位(18人中)で走り切り、チームも5位でフィニッシュ。本大会への出場権を獲得している。
思わぬ再会に驚きつつ記憶を蘇らせていると、確かに腑に落ちる点はあった。
高校時代の河田は走力と体力に秀でたMFだった。豊富な運動量を駆使して攻守のバランスを取りながらも果敢にゴールに絡んでいく、そんな印象が残っている。一美和成(横浜FC)、野田裕喜(モンテディオ山形)、真鍋旭輝(レノファ山口)ら現在のJリーガーが顔を揃えるタレント集団だったが、チームメイトに負けず劣らず、存在感を発揮していた。
ただ、高校年代の取材を重ねる中で彼のことをより鮮明に思い出せるのは、当時の河田が駅伝大会に駆り出されていたからだ。しかも、高校駅伝最大の舞台である全国高等学校駅伝競走大会(通称・都大路)の熊本県予選、である。
サッカーから陸上へ転向。河田のその後に何があったのか。リモートインタビューを申し込み、これまでの経緯を訊いた。
植田、豊川に憧れて入学した大津高校
「僕が中3の時の大津高校には、植田直通(セルクル・ブルージュ)さん、豊川雄太(セレッソ大阪)さんがいて本当に強い世代だった。大津の試合を見て、『あの青いユニフォームを着てプレーしたい』と思ったし、過去に多くのJリーガーを輩出している学校だったので、ここで活躍をしたらプロという道も拓けるんじゃないかなと思ったんです」
熊本に生まれ育った河田は小学校時代から足が速く、持久走ではいつも一番。その脚力はサッカーでも生かされ、中学時代はJFAアカデミー宇城で活躍。同期の一美とともに大津高校へ進学した。しかし、名門・大津の壁は厚く、1年からレギュラーを獲得する一美に対し、河田は2年生までメンバー外が続いた。
陸上部の米田監督から呼び出されて
そんな不遇の時を過ごしていた選手権予選前。陸上部の米田光宏監督に呼び出され、「お前、足が速いし、体力も相当あるよな? ぜひ駅伝を走ってくれ」と依頼を受けた。前述の都大路の県予選は選手権の県予選期間とも重なる。駅伝に出るということは、メンバーに入れないことを意味していた。
「正直、エントリーされたくない大会でしたね。でも、どうせ選手権予選のメンバーに絡めないのであれば、その悔しさをぶつける場所にしようと思って走りました」
任された3区は8km。期待に応え、区間2位で走り抜いた。チームの結果は予選落ちだったが、悔しい気持ちは一切湧かなかった。むしろ「来年は絶対に出ない」という意志の方が固かったと笑う。