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岡田彰布、鳥谷敬は“早稲田エリート” 巨人「慶應」・阪神「早稲田」はいつから始まったのか?
posted2020/11/10 11:03
text by
橘木俊詔Toshiaki Tachibanaki
photograph by
Makoto Kenmizaki
球団設立以来の歴史を掘り下げ、両球団と学歴の関係を、熱狂的な「虎キチ」である経済学者の橘木俊詔氏が徹底分析する。
※本稿は、橘木俊詔著『阪神VS巨人 「大阪」VS「東京」の代理戦争』(潮新書)の一部を、再編集したものです。
拙書『スポーツの世界は学歴社会』(2012)ではプロスポーツの世界では意外と学歴の影響力があると指摘した。それを巨人と阪神に特化して検証してみよう。巨人は慶應重視、阪神は早稲田重視という特色の見られることがここでの関心である。もとよりこの両大学は東京六大学野球の伝統校であるのに加えて、各種の分野で社会的に活躍する人物を多く輩出した。
巨人の「慶応義塾大学」
まず巨人より始めよう。戦前に人気の高かった東京六大学野球では、慶應の水原茂と早稲田の三原脩(修)はライバル関係にあったが、二人ともプロ野球では巨人で活躍することとなった。OB重視の巨人はまず三原を監督にしたが、その後三原を半分追い出す形で水原監督にしたのである。ここで巨人の慶應重視が始まった。もとより慶應出身以外の監督も多くいたが、ここでは藤田元司監督と最近の高橋由伸監督の名前を挙げておこう。なお早稲田出身も藤本定義、中島治康、三原と3名いるので、早慶の重視と理解したほうが賢明かもしれない。
むしろ慶應重視は巨人のオーナーが正力亨(正力松太郎の長男で慶應出身)になったときに顕著となった。象徴的には既に述べたが、1984(昭和59)年のドラフト1位の上田和明、1989(平成元)年のドラフト1位の大森剛の指名であった。東京六大学野球で活躍した選手ではあったが、他に有力なドラフト候補がいたにもかかわらず、上田と大森を第1位に指名したのは、正力オーナーの意向ないしまわりの人の忖度があるとされた。二人はそれほど有力な巨人の選手になることはなかった。ついでながら早稲田出身者としては、筆者の記憶では内野手の広岡達朗、捕手の山倉和博、盗塁王の松本匡史などが思い浮かぶ。