ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
藤波辰爾が明かす生涯ベストバウト。
猪木へのビンタと8.8横浜文体の真実。
posted2020/04/15 20:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
1970年に日本プロレスに入門し、翌'71年にデビューを果たした藤波辰爾は、今年、プロレス生活50周年を迎える。いまのプロレス界には、還暦を過ぎてからも時折リングに上がる大ベテランが少なからず存在するが、一度も正式な引退をすることなく、半世紀という長きにわたって現役を続けているのは藤波ただ1人。そんな藤波は、レスラー人生で一番心に残っている試合についてこう語っている。
「僕の名勝負というと、一連の長州力戦や前田日明戦というものを誰しもが挙げてくるでしょうし、剛竜馬戦やチャボ・ゲレロ戦といったジュニアヘビー級時代の試合を挙げる人もいるでしょう。でも、個人的な部分で言えば、やっぱり猪木さんとやった、('88年)8.8横浜の試合でしょうね。
猪木さんは、僕がこの業界に入った時から師と仰いでいた人で、若手の頃は、まさかこの人と闘えるなんて夢にも思っていなかった。それが時を経て、猪木さんと実際にリングで闘うチャンスに恵まれて、しかも自分がチャンピオンとして、猪木さんの挑戦を受けるなんていう日が来るとはね」
人気低迷、世代交代も進まず。
藤波が一番に挙げる、1988年8月8日、横浜文化体育館で行われたアントニオ猪木戦。この時期、新日本プロレスは大きなピンチに見舞われていた。
この前年、'87年には“海賊男”の不可解な乱入や、ビートたけし率いる「たけしプロレス軍団(TPG)」の参戦といった“茶番劇”にファンが怒り、3.26大阪城ホール、12.27両国国技館と2度にわたって暴動が勃発。さらに'88年3月には15年続いたテレビのゴールデンタイム放送が終了。人気低迷に歯止めが利かない状況になっていた。
その一方で他団体を見渡すと、ライバル全日本プロレスは、御大ジャイアント馬場からエースの座を禅譲されたジャンボ鶴田と天龍源一郎の“鶴龍対決”が話題となり、この年、新日本を解雇された前田日明は新生UWFを設立し、若いファンの絶大な支持を集めていた。
プロレス界は確実に新しい時代を迎えつつあったが、そんな中で新日本だけは世代交代が進まず、相変わらず猪木が絶対的なエースに君臨。しかし、40代半ばを迎えていた猪木の体力と気力の衰えは顕著であり、その求心力低下がそのまま新日本自体の低迷とリンクしてしまっていたのだ。