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藤波辰爾が明かす生涯ベストバウト。
猪木へのビンタと8.8横浜文体の真実。 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph byAFLO

posted2020/04/15 20:00

藤波辰爾が明かす生涯ベストバウト。猪木へのビンタと8.8横浜文体の真実。<Number Web> photograph by AFLO

1988年8月8日、アントニオ猪木を王者として迎えた藤波。数々の名勝負を演じてきたが、このリングの光景は今でも心に残っていると語った。

覚悟を示した「飛龍革命」。

 この危機的状況に立ち上がったのが、長年、猪木とともに新日本を支えてきた藤波だ。

 '88年4.22沖縄・奥武山体育館での試合後、控室に戻った藤波は猪木に対して事実上のメインイベンター交代を直訴。「やれんのか、おまえ!」と顔をビンタで張った師匠・猪木に対して、ひるむことなく強烈な張り手を返し、救急箱内にあったハサミで前髪を切り覚悟のほどを示した。これが俗に言う「飛龍革命」だ。この時の思いを、藤波はこう語る。

「沖縄でのあの感情はリアルですよ。ただ、べつに猪木さん個人に対する怒りがあったわけじゃない。本来、僕や長州といった下の世代がもっと早く、トップに立って興行を仕切れるようになってなきゃいけなかった。だから、あの時は自分自身への不甲斐なさもあったし、長年、重荷を背負い続けてきた猪木さんをなんとか楽にしてあげたかった。

 でも、僕らの世界では、会議室で猪木さんに相談して『僕らが代わりにやりますから、任せてください』なんていうのは通用しない。現場で既成事実を作るしかないんですよ。それでああいう行動に出たわけだけど、親分を殴っちゃったわけだから、どんな処分を受けても構わないぐらいの気持ちだった。

 今振り返ると、なんであそこでハサミを出して髪を切るなんて、子供じみたことをやったのかなと思うんだけど。あれは自分の精一杯の決意表明なんですよ。また、映像を見返してみると、自分でも何をしゃべってるのかわからないけど、感情が溢れすぎて言葉にならなかったんだよね。それぐらい自分は本気だったから」

「俺はもう何も言わんぞ!」

 16歳でプロレス入りした時から猪木の付き人を務め、新日本の旗揚げ以降も常に行動を共にした藤波にとって、猪木は師匠以上の存在。猪木のやり方に初めて反旗を翻したのは、それだけの危機感が藤波の中にあったのだ。

 この藤波の決死の訴えに対して猪木は、「俺はもう何も言わんぞ! やれよ、そんなら!」と、突き放すように容認。そして沖縄大会以降、「ランニング中に足の甲を骨折した」という真偽不明の理由で試合を欠場し、自身が保持していたIWGPヘビー級王座も返上した。こうして猪木不在の中で暫定エースとなった藤波は、ビッグバン・ベイダーとの王座決定戦に勝利しIWGP王座を初めて獲得。その後、ライバルの長州にもピンフォール勝ちを収め、新日本のトップに立った。

【次ページ】 珠玉の60分は、最高の結末に。

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