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数々の名勝負を生み出した
聖地「ブンタイ」とのお別れ。

posted2020/04/09 08:00

 
数々の名勝負を生み出した聖地「ブンタイ」とのお別れ。<Number Web> photograph by AFLO

'88年、60分の死闘を終えて猪木が藤波にベルトを手渡す。新日本に限らず、各団体の名勝負が横浜文体で生まれた。

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門馬忠雄

門馬忠雄Tadao Monma

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AFLO

 京浜地区で最古を誇ったスポーツ施設、横浜文化体育館が今年9月に閉館する。

 JR根岸線・関内駅から歩いて4~5分。足の便がいい。地元横浜で「ブンタイ」と呼び親しまれたプロレスの名物会場は、1962年5月11日に開館した。直後の5月23日に行われた力道山の日本プロレス「第4回ワールド大リーグ戦」が、いわばこけら落としのような大会だった。

 横浜在住40年、同館がオープンした'62年に東京スポーツに入社した筆者にとって、昭和、平成、令和の3時代を歩み、58年の歴史を刻んだ聖地がなくなるのは、やはり寂しい。駆け出し記者として一般スポーツを担当していた'64年10月の東京五輪では、横浜文体が会場となった男子バレーボールを取材した。その後も、卓球、ボクシング、プロレス、総合格闘技などが開催された同館は、書き手にとっても錬成道場だった。思い出は尽きない。

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