パラリンピックPRESSBACK NUMBER
パラリンピックは日本で生まれた。
生みの親・中村裕博士とは何者か。
posted2019/11/24 08:00
text by
鈴木款Makoto Suzuki
photograph by
Taiyo no ie
2019年11月8日午前10時。
東京・渋谷は、雲ひとつ無い、抜けるような青空が広がっていた。
その日筆者がいたのは、代々木公園に隣接する「織田フィールド」。
渋谷駅から公園通りを抜けて15分ほど歩いたこの陸上競技場では、朝から20人ほどの学生や市民ランナーたちが、400mトラックで熱心に走り込んでいた。
気温は10度台半ば。じっとしているとひんやりする気温だが、ランナーたちは汗をにじませながらピッチを刻んでいる。
あの日もこんな天気だったはずだ。
ちょうど55年前の1964年のこの日、世界で初めてパラリンピックと名付けられた障がい者スポーツの祭典が、ここ織田フィールドで始まった。
「日本パラリンピックの父」
午前10時、秋晴れの空に110発の花火が打ち上げられると、大会名誉総裁の皇太子殿下、美智子妃殿下(現在の上皇、上皇后)が見守る中、自衛隊が演奏するマーチに合わせて世界21カ国から集まった選手・役員約560名が入場行進を始めた。
行進の最後を飾ったのが、開催国・日本。そして日本の選手団長を務めたのが、この記事の主人公となる中村裕だ。身長174cmと当時としては長身、黒縁めがねの奥にある眼光鋭い眼差し、横わけの髪型、そして大きな前歯が特徴的なこの男こそ、後に「日本のパラリンピックの父」と呼ばれることになる、東京パラリンピックを成功に導いた大分県の医師だった。
「ついに、日本で開かれた」
中村は心の中でわき上がる喜びを抑えきれなかった。
パラリンピック開催に至る道のりは、決して平坦では無かった。
当時の日本社会には障がい者に対する根強い差別や偏見があり、ましてや障がい者がスポーツをすることに理解を示す者はほとんどいなかった。
このとき中村は37歳。医学界ではまだまだ若輩者とみられていた中村が、どうやって多くの逆境を乗り越え、東京パラリンピックを実現することができたのだろうか。
ここでは中村が「日本のパラリンピックの父」と呼ばれるようになるまでの軌跡を追う。