パラリンピックPRESSBACK NUMBER
パラリンピックは日本で生まれた。
生みの親・中村裕博士とは何者か。
text by
鈴木款Makoto Suzuki
photograph byTaiyo no ie
posted2019/11/24 08:00
1964年は東京オリンピックの年であると同時に、「パラリンピック」が世界で初めて開催された年でもあった。
社会における障がい者の位置づけが違った。
大会の総合成績は、1位がアメリカ、2位がイギリス、3位がイタリアと欧米が上位を独占し、日本は参加国中13位だった(金メダル1、銀メダル5、銅メダル4)。
この結果を見ながら中村は、日本と外国の差をあらためて強く感じた。
「日本人選手は弱々しく顔色が悪い。しかしこの差はスポーツだけじゃない。日常生活がまるで違うんだ――」
実は中村は、大会運営や選手団長としての仕事をこなしつつ、医師として外国人選手に日常生活に関するアンケート調査を行っていた。
そして調査の結果、外国人選手の7割が健常者と同じように仕事を持って自立していることがわかった。
一方日本人選手は、53人のうち職業を持っていたのは5人。
ほかはすべて自宅か療養所住まいで、「保護される患者」であった。
中村は「新幹線が開通し、東京の街に新しいビルがどんどん建ち始めても、障がい者に対する考え方はまだまだだな」と感じた。
大会が終わり、日本選手団の解団式で中村は選手たちにこう言った。
「これから身障者は慈善にすがるのではなく、自立できるよう施設を作る必要があります。外国に負けてはいられない。戦いはこれからです」
障がい者が健常者と同じように働くことなど誰もが想像しなかった昭和の時代に、稀代のチェンジメーカーである中村が、さらなる高みを目指すと表明した瞬間だった。
(後編に続く)