パラリンピックPRESSBACK NUMBER
パラリンピックは日本で生まれた。
生みの親・中村裕博士とは何者か。
text by
鈴木款Makoto Suzuki
photograph byTaiyo no ie
posted2019/11/24 08:00
1964年は東京オリンピックの年であると同時に、「パラリンピック」が世界で初めて開催された年でもあった。
脊髄損傷患者がバスケットボール。
中村は1927年、大分県別府市に生まれた。子どものころから成績優秀で機械いじりが好きだった中村は大学の工学部への進学を希望したが、病院を経営していた親の反対にあい、結局医学の道に進むことになった。
九州大学で整形外科の医局に入り、当時医学界でもほとんど知られていなかった「リハビリテーション(リハビリ)」の研究を始めたことが、その後の中村の人生を大きく変えることになる。
中村は1960年に厚生省(当時)からリハビリ研究のため欧米への出張を命じられた。
そしてイギリス・ロンドン郊外にあるストーク・マンデビル病院で中村は、車いすの脊髄損傷患者たちがバスケットボールをしている光景に衝撃を受ける。
「何だ、これは……。日本では考えられない」
この病院では「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」を合言葉に、脊髄損傷患者のリハビリにスポーツを取り入れていた。
そして、患者の社会復帰率85%という数字に中村は驚いた。
なぜなら当時の日本の復帰率は2割程度という時代だったからだ。
医学界も、障がい者団体も激しく反発。
帰国した中村は早速、脊髄損傷患者にスポーツをさせることを主張した。
しかし医学界では「それは無理だろう」「悪くなったら誰が責任を取るのだ」と冷笑され、障がい者団体からは「障がい者を見世物にする気か」と激しい批判を浴びることになった。
それでも中村は信念を曲げず周囲を説得して回り、大分で日本初となる障がい者のスポーツ大会の開催にこぎつけた。
しかし日本初の試みにもかかわらず、取り上げるマスコミはほとんど無かった。
常人ならここで、「やはり理解を広げるのは無理だな」と諦めるだろう。
だが中村は「日本人は地方のことには関心を示さない。それならいっそ欧米の大会に出てやろう」と考えた。
そして、パラリンピックの原点である「国際ストーク・マンデビル大会」に、アジアから初めての参加国として出場したのだ。
これが欧米の障がい者スポーツ関係者に認められ、1964年の東京オリンピックで「国際ストーク・マンデビル大会」(後にパラリンピックと呼ばれる)の開催が決まると、中村は運営を託されることになった。