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パラリンピックは日本で生まれた。
生みの親・中村裕博士とは何者か。 

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鈴木款

鈴木款Makoto Suzuki

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photograph byTaiyo no ie

posted2019/11/24 08:00

パラリンピックは日本で生まれた。生みの親・中村裕博士とは何者か。<Number Web> photograph by Taiyo no ie

1964年は東京オリンピックの年であると同時に、「パラリンピック」が世界で初めて開催された年でもあった。

「パラリンピック」の名称は日本が初。

 しかし東京パラリンピックの開催にこぎつけるまでは、一筋縄ではいかなかった。

 まず、障がい者スポーツに対する社会の無理解、無関心は相変わらずだった。

 さらに中村を悩ませたのは、資金難だ。

 当時パラリンピックの準備委員会にいた元厚生省の井手精一郎氏はこう言う。

「国から出たのは2000万円、東京都からは1000万円だったので、あとの開催費用は募金活動です。当時バーテンダー協会が協力してくれて、バーに募金箱を置いてもらい4800万円集まりました。募金活動には(故・)坂本九さんも参加してくれましたね」

 1964年の東京パラリンピックは、『パラリンピック』という名称が世界で初めて使われた大会だった。

 当時海外ではパラプレジア(脊髄損傷)・オリンピックという名称が使われていたのだが、「実はパラリンピックと名付けたのは、日本人の新聞記者だった」と井手氏は言う。

「パラプレジア・オリンピックと聞いたどこかの新聞記者が『面倒くさいからパラリンピックに縮めましょう』と言い出して、いつの間にか公称になったのです。でも(海外は)怒りましたけどね。『パラリンピック? ノーだ!』って(笑)」

たった2日で作り変えられた選手村。

 正式決定から開催までは、わずか1年余り。

 今から見れば考えられない猛スピードで準備が行われた。

 当初は冷ややかな反応だった厚生省も、「パラリンピックを開催できなければ、『福祉国家日本』の看板は国際的に偽りになる」という中村の説得に背中を押された。

 ボランティア組織も次々と立ち上がり、通訳には語学堪能な学生たちが、医療班には大学の医療関係者が参加し、選手の移送は自衛隊が手弁当で行った。

 さらに特筆すべきは、選手村の改修工事だ。

 当時の選手村はオリンピック委員会の管理下にあり、オリンピック関係者が引き上げるまで、パラリンピック側は手を付けることができなかった。

 パラリンピックの担当者たちはわずか2日間で、宿舎や食堂の出入り口にスロープを付け、特設スタンドを完成させた。

 これには中村も「日本人ならではの離れ業だな」と感心せざるをえなかった。

【次ページ】 開会式に4000人、競技は9種目。

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