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パラリンピックは日本で生まれた。
生みの親・中村裕博士とは何者か。 

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鈴木款

鈴木款Makoto Suzuki

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photograph byTaiyo no ie

posted2019/11/24 08:00

パラリンピックは日本で生まれた。生みの親・中村裕博士とは何者か。<Number Web> photograph by Taiyo no ie

1964年は東京オリンピックの年であると同時に、「パラリンピック」が世界で初めて開催された年でもあった。

開会式に4000人、競技は9種目。

 11月8日の開会式に集まった観客は4000人を超えた。

 国立競技場で行われたオリンピックの開会式に比べればこぢんまりした祭典だったが、開催に向けて「失敗は許されない」と走り回ってきた中村は胸がいっぱいになった。

 行われた競技は9つ。

 アーチェリー、車いすバスケットボール、車いすフェンシング、水泳、卓球、パワーリフティング、スヌーカー、ダーチェリー、そして陸上競技。

 陸上には、こん棒投げ、円盤投げ、やり投げ、車いす競争、車いすスラロームなどの種目があった。

 また、当時のパラリンピックは脊髄損傷以外の障がい者が参加できなかったのだが、東京パラリンピックでは、他の障がいがある者も参加できる国内大会を合わせて開催した(一部外国人選手も参加した)。

日本からは53人が参加した。

 総勢約370名の選手のうち、日本からは53名が参加した(うち女性選手は2人)。

 しかし当時は、まだスポーツをする障がい者がほとんどいない時代だったので、大会関係者は急ごしらえで選手を集めた。障がいを負う以前にスポーツをしていた入院患者には、片っ端から声をかけるような状況だった。

 車いすバスケなどに出場した須崎勝己さん(当時22歳)は、病院で寝たきりの生活を送っていた時、中村から「バスケットボールをやらないか」と誘われた。

「バスケは中学の時にやっていましたが、車いすバスケは知らなかったです(笑)。病院内でチームを作ったけどみんな初めてだったので、すぐ後ろにひっくり返って。水泳にも出場しましたが、25mと聞いていたのに、東京に行ったら50m泳ぐと初めて聞いて驚きました。スラロームも練習したことがなかったのですが、中村先生が『できるからやってみろ』と。でも外国人選手とは技術が全然違いました」

 日本人選手と欧米選手との技術や体力の差は歴然としていた。

 しかしそれ以上に差が大きかったのは、車いすの性能だった。

 車体の重量はイギリスのスポーツ用車いすが13kg。対して日本の車いすは23kgと10kgも重く、これではまるで勝負にならない。

【次ページ】 社会における障がい者の位置づけが違った。

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