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宿沢さん、これが2019年の日本です。
スコットランドに挑み続けた30年。

posted2019/10/16 20:30

 
宿沢さん、これが2019年の日本です。スコットランドに挑み続けた30年。<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

ボールを持った選手は、全ての味方の視線を受けながら15人の相手に向かって先頭を走る。それがラグビーという競技だ。

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生島淳

生島淳Jun Ikushima

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Naoya Sanuki

 1989年5月28日。

 宿沢広朗率いる日本とスコットランドの試合が秩父宮で行われる日だった。

 まだ大学4年生だった私は、前日に野球の早慶戦の観戦があり(現・早大野球部監督の小宮山悟氏が先発だったはず)、夜に少しばかり飲みすぎていた。あまり体調がよくない。それでも友人がこう言った。

「行ったほうがいいよ。なにかあるかもしれないから」

 そして、本当に「なにか」が起きた。

 28-24。

 トライ数は5対1の完勝、ラグビー日本代表が、ホームユニオンに勝つだなんて……。あの日の感動は筆舌に尽くしがたい。

 監督だった宿沢広朗さんは、一躍、時の人となった。秩父宮でのスコットランドの非公開練習を、隣接する伊藤忠商事のビルからこっそりと偵察していた話など、聞いているだけでワクワクした。

 メンバー表を見ても懐かしい。ロックは林敏之、大八木淳史の同志社→神戸製鋼コンビ。ナンバー8にはトンガからやってきたシナリ・ラトゥが入り、この時から海外出身選手との融合が始まったといえる。

 そして9番には堀越正巳(早大)、10番に青木忍(大東大)、11番には吉田義人(明大)の大学生3人が並び、12番には平尾誠二がいた。

 昭和から平成のラグビーを彩った人たちだ。

勝てなくても、評価される戦いを。

 2年後、宿沢ジャパンは第2回のワールドカップに臨んだ。1991年10月5日、初戦の相手がスコットランドだった。

 このときのスコアは9-47。前半は9-17と拮抗したが、スコットランドの地元マレー・フィールドということも作用したか、後半になって地力の差が出た。

 その数年後、宿沢さんに秩父宮近くのお店で話を聞くことが出来た。日本がW杯で戦うことの意義について。宿沢さんはこんな話をしてくれた。

「現状、W杯でホームユニオンに勝つのは難しい。1991年の大会では、ジンバブエに勝つのはマストだった。でも、なんとか『1.5勝』はあげたいと思ってたんだよね」

 1.5勝。

 ホームユニオンに勝つのが難しいとなれば、評価を得られる戦いをしようではないかーー。

 平成の知将は、それを具体的な戦果目標としていた。恥ずかしくない戦いをすれば、将来もホームユニオンと試合が出来るはずだったからだ。

 それが1991年の現実だった。

【次ページ】 「ブライトンの奇跡」の4日後。

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