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仙台育英にいた天才「もう、無理だ…」なぜ野球に絶望したのか? 初めて語る“同学年ライバルに抜かれる”恐怖「ドラフトは大谷翔平と藤浪晋太郎の代」
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byMakoto Kenmizaki
posted2024/07/07 11:02
大谷翔平と同年だった「仙台育英の天才」はなぜ野球に絶望したのか(写真はイメージです)
「行きたい大学を第3志望まで書いて出すんです。その頃は(高卒で)プロは考えていなかったので第1志望は青学(青山学院大)と書きました。ルートがあって毎年、仙台育英から1人入っていたので。あと、東北福祉大の名前も書いた記憶があります。たまに、おまえがそんなところ行けるわけねえだろみたいな大学を書くやつもいるんですけど、だいたいは実力を弁えて俺だったらここくらいかなというところを書くんです」
仙台育英はその夏、安定感のある戦い振りで宮城大会を制し、2年振りの甲子園出場を決めた。打たせて取る技巧派に変貌した渡辺はこの大会、5試合で計39回を投げ、与えた四死球はわずか1つ。失点も2にとどめた。
甲子園では3回戦で涙を呑む。渡辺はさばさばとした表情で言う。
「甲子園で負けたときは儀式として泣きましたけど、2つ勝ったからいいかって」
渡辺はこの夏の成長が評価され、甲子園の1回戦を突破したところで青山学院の関係者から内定の知らせを受けた。
「大谷・藤浪」のドラフト1位指名を見た
この年の秋のドラフト会議の中心にいたのは春夏連覇を達成した大阪桐蔭のエースである藤浪晋太郎と、高校から即メジャー挑戦を表明していた大谷だった。
渡辺はそれを遠い世界の出来事のように眺めていた。
「小・中時代は、はっきり自分はプロに行けると思っていたんです。でも、このときにはだいぶ距離ができたな、って。完全に諦めたわけではないんですけど、うっすら(プロは)ダメっぽいなというのはありましたね。大谷とか藤浪みたいなのがプロなんだなっていう感覚でした」
渡辺が望みを完全に捨てていなかったのは打者としての自分の可能性にかけていたからだ。
それでも渡辺は「天才」だった…“ある証言”
仙台育英時代の恩師である佐々木順一朗は、投手としてならば、桐光学園の松井裕樹(パドレス)の方が大谷よりも衝撃的だったという。大谷の1学年下で、2012年夏の甲子園の初戦では今治西を相手に10連続を含む22奪三振というとんでもない記録を打ち立てた。
仙台育英は松井が甲子園デビューを飾る少し前に練習試合で対戦していた。佐々木は興奮気味に語る。
「上林(誠知/中日)が4打席連続三振もしたのは松井だけですよ」
渡辺の中でも松井は鮮烈な記憶として残っているようだった。ただ、そのセリフは渡辺が打者として非凡だったことを証明している。