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格闘技PRESSBACK NUMBER
「今から行って、お前らをぶち殺す」会長の自殺、師匠・力道山の急死、突然のボクサー引退…“アントニオ猪木の同門レスラー”波乱万丈の人生
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph bySankei Shimbun
posted2023/12/30 11:06
1971年11月、アントニオ猪木と倍賞美津子の結婚式。今回、猪木の同門レスラーが波乱万丈の人生を明かした
「合宿所に戻ったら『よくやったなあ』ってみんな言うんだよ。猪木さんも上田さんも、レスリングが好きだから、ボクサーになろうという意志はなかったと思うけど、若い衆の何人かは、ボクシングの練習もするようになったし、実際に転向したのも、練習生の中には何人かいたんじゃなかったかな。あのまま、師匠が生きていたら、ボクシング界も牛耳っていたかもしれない。だって、何より資金力が違ったんだもん」
この年からリキスポーツパレスでは、東洋フライ級王者の矢尾板貞雄や、のちに世界王者となる小林弘を擁する名門ジム・中村ボクシングジムと提携して、ボクシングの定期戦「ノックアウトボクシング」をスタート。ボクシング興行に本腰を入れるようになる。
さらに、この直後、力道山はハワイからトレーナーを招聘する。「エドワード」と名乗る日本とイギリス系のハーフの彼は、ジムに竹刀が置いてあるのを見て「これ、片付けて。選手を叩くのは必要ないから」と言った。そのトレーナーこそ、のちに、藤猛、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹と、6人の世界王者を誕生させるエディ・タウンゼントである。琴音は最初期の弟子ということになる。
「それまでは、トレーナーはハロルド登喜さんがやっていて、まあ、日本式の練習、プロレスと変わらないものだった。それが、エディさんがやって来て、練習方針をガラッと一新させた。『レスラーと同じ練習はしなくていい』と言うわけだ。今なら当たり前のことだけど、当時としては、なかなか斬新だったかもしれない」
新トレーナー・エディ・タウンゼントの方針で、期待の新人・琴音竜の第2戦は秋まで持ち越された。「今はじっくり育てよう」という理由で、オーナーの力道山もその意見に従った。
「今にして思えばだけど、エディさんは、技術的なものは、実はそうでもなかったのかもしれない。ただ、選手を乗せるのが本当に上手いんだ。スパーリングのときも『いいよ、そうだ』と、たどたどしい日本語でアドバイスをくれると、不思議なことにいつもの倍は動ける。優しい人でもあったから、信頼を置いていたよ。でも、試合の前となると『殺せ、殺せ、殺せ!』って凄い迫力で言うわけよ。そんな風に言われたら、前に出るしかないよな」
スパーリングパートナーを滅多打ちに…
効果は覿面で、9月8日に行なわれたプロ第2戦は、前年の西日本ミドル級新人王・佐藤辰巳(オール)に判定勝ちを収め、同じ月の25日に行なわれた、格上の紅沈山(国民)との一戦は、開始と同時に圧倒し、2RTKO勝ち。この試合は、新聞でも報じられており、期待の大きさがうかがえる。エディ・タウンゼントのコメントもある。