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「おい、張本おれへんのか」“大阪で一番ケンカが強い”張本勲との決闘未遂…大阪のヤンチャな高校生がアントニオ猪木と同門レスラーになった日 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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posted2023/12/30 11:05

「おい、張本おれへんのか」“大阪で一番ケンカが強い”張本勲との決闘未遂…大阪のヤンチャな高校生がアントニオ猪木と同門レスラーになった日<Number Web> photograph by Getty Images

1960年、力道山(右)からスカウトされ、日本プロレスに入団したアントニオ猪木(当時17歳)

「当時、張本は『大阪で一番強い』って噂されてて『じゃあ、どれくらい強いんだろう』って思ったんだ。興味もあったけど、俺としては『冗談じゃない』って気持ちもあってね。張本は同学年で、同じ在日。余計にライバル心があった。でも、結局、そのときに出会うことはなかった。出会うわけないよ。だって、放課後のその時間、あいつは野球部で忙しかったんだもん(笑)」

力道山「お前、やれるか?」「やります!」

 そんな琴音少年の憧れは、テレビで見るスーパースター・力道山だった。「同胞ということはとっくに知っていた」と言う。「張本が野球でスターになるなら、俺はプロレスで身を立てよう」と夢を抱くようになった。

 高校を卒業すると、琴音は力道山への弟子入りを決意。少年時代から顔見知りだった帝拳所属のプロボクサー・金田森男(のち日本ミドル級王者)に力道山への橋渡しを頼み、勇躍上京する。1961年、琴音隆裕20歳の春である。

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「そのとき、神戸の三宮にあるお寺の坊さんに『力道山の弟子になるから、リングネームを付けて下さい』って頼んだんだ。俺は金子っていう苗字が何だか嫌で、それで命名してもらったのが『琴音竜』だった。いい名前だよ。それから40年経って、日本国籍を取得するとき、そのまま『琴音』を苗字にしたわけよ」

 上京した琴音は、金田森男に連れられ、渋谷大和田町(現・道玄坂1丁目)のリキスポーツパレスに出向く。リキパレスの2階に日本プロレスのオフィスがあり、地下に道場があった。この時点では、まだボクシングジムは始めておらず、琴音もプロレスラー志望として、憧れの力道山と初めて会った。

「金田森男がウチの師匠(力道山)と前から知り合いですんなり通された。入門テスト? ないない。師匠に『お前、やれるか?』って訊かれて『やります』って言っておしまい。そのまま、赤坂にあった合宿所に入れられた。そしたら、翌日からいきなり猛練習が始まったんだよ」

「スクワット2000回、腕立て伏せ2000回」からの…

 このとき、合宿所には大木金太郎、平井光明(ミツ・ヒライ)、猪木寛至(アントニオ猪木)、上田裕司(上田馬之助)、駒厚秀(マシオ駒)、北沢幹之(魁勝司)、林幸一(ミスター林)、星野建夫(星野勘太郎)といった面々が揃っていた。彼らは年齢もまちまちだが、琴音にとっては先輩となる。ちなみに、ジャイアント馬場はすでに海外武者修行に出かけて、道場にも合宿所にもいなかった。

「入門翌日、さっそく練習が始まった。部屋長の前座レスラー・桂浜(田中米太郎)の号令で20人がずらっと並んで、1人100回ずつヒンズースクワットをやるわけ。合計2000回だよな。次に腕立て伏せも同じ数をやる。気が遠くなるよ。そこから受け身を取ったりして、体力練習が一通り終わったら、最後はグランドレスリングの練習に入るわけ。『極めっこ』だよ。これがきついんだ」

【次ページ】 猪木と酒を飲む日々

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