Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「ちょっと病みつきになる」福田正博が惚れた最高のパサーはラモスでも小野でもなく…森保に慰められたJ2降格、引退を決めたオフトの言葉
posted2023/04/24 11:02
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
J.LEAGUE
ラモス瑠偉、名波浩、小野伸二、礒貝洋光……。日本代表と浦和レッズで稀代のゲームメーカーから珠玉のパスを受けてきた福田正博が「あのパスは、ちょっと病みつきになるくらい凄かった」と称賛する選手がいる。
1994年夏から96年まで2年半、ともにプレーしたウーベ・バインである。
ケルン、ハンブルガーSV、フランクフルトといったドイツの名門クラブを渡り歩き、西ドイツ代表として90年イタリアW杯優勝を経験した左利きのプレーメーカーだ。
「ウーベとは、最初はまったく合わなかったんだけど、彼の感覚に合わせられるようになると、面白いようにパスが出てきてね……」
93年のJリーグ開幕から2年続けて低迷し、“Jリーグのお荷物”と揶揄された浦和に95年、変革のときが訪れた。イタリアW杯の西ドイツ代表でコーチを務めたホルガー・オジェックが監督に就任し、ようやくチームとしての戦い方が整理されたのだ。
元ドイツ代表DFのギド・ブッフバルトを中心とした堅守から速攻を繰り出し、バインのパスから福田や岡野雅行が抜け出すというスタイルが定まると、それまでの低迷が嘘のように、レッズは躍進した。
「ギドもウーベも94年夏に加入したんだけど、最初の半年間はあまり良くなかった。彼らほどの実力者でも、組織がしっかりしてないと輝けないんだなって感じたな」
「ウーべがいなくなったあとは大変だったな」
一方、福田はオジェックから「きみは他の選手をまったく信用していない。それだと周りの選手からきみ自身も信用されないぞ」と指摘された。
「93年、94年は自分がなんでもやろうとしていたんだな。『点を取ることだけに集中すべきだ』と指摘されて、落ち着きを取り戻したというか、自分の中で余裕が生まれた」
こうしてスタートしたオジェック体制の指宿キャンプで、福田はバインから声をかけられた。
「『足もとで欲しいのか、スペースで欲しいのか』と聞かれて、『スペースで欲しい』と答えたら、『分かった』と。やりとりはそれだけだったけど、それからは裏にポンポン、ボールが出てきた。ウーベはとにかく裏に出すのが早いんだよ。先読みしながらポジションを取らないといけないんだけど、おかげでディフェンスラインとの駆け引きも上手くなった。だから、ウーベがいなくなったあとは大変だったな。ウーベのタイミングで飛び出すと、ボールが出てきてないから、全部オフサイドになっちゃって」
バインからの珠玉のパスをゴールに結びつけ、PKでもネットを揺らし続けた福田は95年シーズン、32ゴールをマークして映えある日本人初の得点王に輝いた。この年、レッズも年間3位に飛躍を遂げた。