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故障しても箱根駅伝に強行出場→最終10区で疲労骨折リタイア…90年代から頻発、給水ルールも変更された「棄権から見る箱根駅伝史」
text by
工藤隆一Ryuichi Kudo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/01/02 11:02
近年では幸いにもあまり見られなくなっている途中棄権。じつは棄権が増え、対策がなされてきた歴史があった。※写真はイメージです
そのまま450mほど進んだところで大後は高嶋の肩に手をかける。「もうこれ以上走らなくてもいい」のメッセージだ。神奈川大の棄権がこの時点で確定した。
近づこうとする監督を手で払いのけ…
同じ審判車に乗ってこのシーンを目撃していたのが山梨学院大の上田誠仁監督だった。すぐに2号監察車に乗り換え、3位で襷を受けとった自校のエースランナー中村祐二のもとに駆けつけた。中村は実業団から23歳で山梨学院大に入学。箱根駅伝のあとは、この年に開催されるアトランタ五輪の代表を目指して「びわ湖毎日マラソン」に挑戦する予定を立てていた。
その中村が2km過ぎから脚を引きずりながら走っていたからである。中村は9km地点で最下位に順位を落とす。しかし、小田原の中継所まではあとおよそ10km。上田は監察車を降り、後ろ向きに走って中村の顔を見ながら声をかける。中村は走ろうとするが、体がいうことをきかない。ただただ歩き続ける。そして、上田が近づこうとすると手で払いのける仕草。それでも中村は歩き続けたが、とうとう12.5km付近で上田に抱きかかえられたのだった。
異変が起きてから、距離にして10.5km。時間にして45分あまりが過ぎていた。もちろん、このシーンもつぶさに放映されたのはいうまでもない。中村は後日、アキレス腱の痛みをチームに隠していたことを明らかにしている。ここでも「無理をしてでも箱根を走りたい」一心が透けて見えてくる。
あの「ビジュアル系ランナー」も…
ちなみに、翌1997(平成9)年の第73回大会の総合優勝は神奈川大。準優勝は山梨学院大だった。予選会出場から優勝したのは神奈川大が史上初めてだった。この大会のあと、ルールが一部変更され、1区と6区以外は途中2か所での給水が認められるようになった。理由は危険対策。とくに脱水症状の防止だった。