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故障しても箱根駅伝に強行出場→最終10区で疲労骨折リタイア…90年代から頻発、給水ルールも変更された「棄権から見る箱根駅伝史」
text by
工藤隆一Ryuichi Kudo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/01/02 11:02
近年では幸いにもあまり見られなくなっている途中棄権。じつは棄権が増え、対策がなされてきた歴史があった。※写真はイメージです
テレビでの全区間生中継の功罪のひとつが、このあたりにあるのかもしれない。自分の晴れの舞台でのパフォーマンスは、親、友人、知人はもちろん、全国の数多くの国民も見ている、いや見られているから頑張らなくては、という「張り切り」は、いくら「平常心」を心掛けても100%捨て去ることはなかなか難しいのではないだろうか。
櫛部の失速劇から4年が経過した1995(平成7)年の第71回大会。ハプニングはレースも終わりに近づいた10区、4位につけていた順天堂大で起こった。浜野健が12km過ぎの品川神社付近で動けなくなったのだ。
必死に走ろうとするが、澤木啓祐監督に説得され、ゴールまで残り9kmの品川駅付近で涙を呑んで棄権したのである。じつは大会前から脚に故障を抱えていたにもかかわらず強行出場。診断の結果は左脛骨の疲労骨折だった。浜野はこのとき2年生。「無理してでも箱根を走りたい」気持ちがあったのかもしれない。
優勝候補2校が棄権という波乱…1996年大会
そして、翌1996(平成8)年の第72回大会では、考えられないような途中棄権が起きたのである。前年優勝の山梨学院大と、この年優勝も狙えるとの下馬評が高かった神奈川大の2校が、同じ4区であいついで倒れてしまったのだ。
最初に異常をきたしたのは神奈川大の高嶋康司だった。6km地点の手前、大後栄治監督を乗せた審判車(この時期、伴走車は廃止されていた)のすぐ横で高嶋が左の脛を押さえて立ち止まった。