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「外人ではなく“害人”だ」という苦情も…箱根駅伝で“留学生ランナー”が禁じ手だった頃「部員の鑑だったオツオリ伝説」
posted2024/01/02 11:03
text by
工藤隆一Ryuichi Kudo
photograph by
AFLO
すべてはオツオリからはじまった
プロスポーツの世界では、いつのころからか外国人選手を「助っ人」と呼ぶようになった。
これはプロ野球が先鞭をつけたのだが、おもに日本人選手に欠けているパワーとスピードを外国人選手で補強しようという、とてもわかりやすい戦略だった。
やがてこの「助っ人」は同じプロスポーツの大相撲にも波及する。200kgを超す体重を武器にしたいわゆる「ハワイ勢」の席巻である。1990年代の小錦、曙、武蔵丸らの活躍はまだ記憶に新しいはずだ。
勝つためには、そして「勝利=収入増」に直接的に結びつくプロスポーツの世界では、十分“あり得る”戦略のひとつだったのだが、その戦略がアマチュアの、それも大学生の競技である箱根駅伝にまで及ぼうとは、ほとんどの人が想像していなかった。
しかし、箱根駅伝では現実になった。1989(昭和64)年の第65回大会。この年、初出場から3年目の山梨学院大は2区にケニアからの留学生ジョセフ・モガンビ・オツオリを起用したのである。
各校がエース級をそろえた「花の2区」で、8位で襷を受けとったオツオリは7人抜きの快走を演じ、区間賞に輝く。この年、山梨学院大はもうひとりのケニアからの留学生ケネディ・イセナを8区に起用したが、結果は区間最下位の15位だった。オツオリの快走は山梨学院大に間違いなく貢献した。この年の総合順位は7位。箱根駅伝出場3年目でシード校入りした“スピード“は、まさにオツオリのスピードが原動力になった。
古くからの箱根駅伝ファンを中心に苦情が寄せられた
当時、「禁じ手」だと考えられていた外国人留学生を起用した山梨学院大には、当然古くからの箱根駅伝ファンを中心に苦情が寄せられた。上田監督は「あれは外人ではなく“害人”だともいわれました」と当時の状況を振り返る。
しかし、リーダーはいったん決意してチームを引き受けたからには勝たなければいけない。
大学としてもほとんど無名に近かった校名を広く知らしめて、学生を増やしていかなければならない。生き残るためにはきれいごとはいっていられない。「害人」と罵られてもこの戦略はけっしてルール違反ではない。
彼らは一時的な「助っ人」などではなかった
だからこそ、上田監督は留学生を単なる「助っ人」としての存在だとは考えていなかった。