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大学野球PRESSBACK NUMBER
「きたねえことすんな!」喧嘩っ早いヤンチャな東大野球部員も…あの“弱小”東大が一番強かった時代「受験でガリガリの東大生が筋肉質に…」
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph bySports Nippon
posted2023/04/22 11:03
1981年春季の「赤門旋風」。伝説の東大野球部チームが4月11日、“優勝候補”法政大を破った。エース大山雄司を中心に歓喜のナイン
「同期の中にあって、投打のオピニオンリーダーだったのが大山と下嶋で、どちらも言いたいことを言うタイプでした。互いに相手の実力は認めているのに、直接話し合うとケンカになってしまう。だからやむなく私が間に入って調整役に徹していました。そういう部内のまとめ役みたいな役割でいるうちに4年生になり、流れでキャプテンをやることになったんです」
「早稲田、慶応には負ける気がしなかった」
この4年生のうち、1年生のときから試合に出ていたのは大久保を含め2名。2年生になると下嶋を含む2名がレギュラー入りした。選手層の厚い他大学では3・4年生から試合に出るのが通常であることと比べると、早くからリーグ戦を経験したメンバーがいることは、プラスの要素だっただろう。
監督の平野も、リーグ戦をよく知る選手が揃えばチームが強くなることには同感だ。平野自身、現役の頃は2年秋から試合に出ていたし、同期の多くも早い時期に神宮球場に立った。その経験の積み重ねが、4年生になった1977年の春リーグで、慶応と立教から奪った勝ち点につながっているわけだ。
かくして東大野球部が4年前の世代と同様に神宮のベテランを揃えて戦力を充実させていた1981年春、対照的に、早稲田と慶応は世代の狭間にあった。
1978年秋、79年春にリーグ優勝した早稲田には岡田彰布(現阪神タイガース監督)がいた。慶応の正捕手は、1975年春から1978年秋までの4年にわたって堀場秀孝(プリンスホテル→広島東洋カープ)が務め、甲子園でサイクルヒットを放ち、1977年に鳴り物入りで慶大入りした玉川寿(日本石油)は、4年間で三度(1977年秋、1979年春、1980年秋)のベストナインに輝いた。
一時代を築いた偉大なプレイヤーが退いたとき、後進が育っていないという光景は、古今東西、多くの組織で見られるものだ。現に、岡田時代の早稲田戦では、東大は20点を取られて負けていたものだが、岡田が抜けた1980年春には、勝ち点を奪っている。
「1981年当時の戦力分析として、別格で強かったのは法政と明治。法政には、PL学園時代に甲子園優勝を経験している西田真次(広島東洋カープ)と木戸克彦(阪神タイガース)のバッテリーに加えて、小早川毅彦(広島東洋カープ)もいた。明治もコンスタントにいい選手がそろっていました。だけど早稲田、慶応には負ける気がしなかったです。経験においても個々人の力量においても見劣りはしなかった」(大久保)
監督の平野もおおむね同様の評価。法政と明治の強さが10だとすれば、東大は5。6~7のところに早稲田、慶応、立教がいるイメージだ。試合展開次第では、早慶立には勝てると踏んでいたという。
通算6本塁打&通算70安打「いまだに残る東大記録」
このような勢力図の中で、平野の指導が実を結ぶ。スポーツ科学を学んでいた平野は「長距離走は優先順位が低い」という理論のもと、コーチ、助監督時代はサーキットトレーニングやインターバル走などで瞬発力や敏捷性を養う練習を行い、監督になってからはウェイトトレーニングとバッティングを中心に指導した。