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「東大でも20年間で4人しかいない奇跡」“偏差値77の最難関”東大医学部と東大野球部を両立させたスゴい天才ってどんな人生? 本人に話を聞いた
posted2022/12/26 11:04
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph by
KYODO
素朴な疑問だが、そんな東大医学部と体育会系部活は両立できるのだろうか? 東大野球部で調べてみると直近20年間で4人だけ、両立を成功させた文武両道の天才がいることが分かった。そんな“超レアなスゴい人”に話を聞く。【全2回の1回目/#2へ】
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「20年間で4人しかいない」
文武両道と言われる東大野球部メンバーの中でも、東大理科三類の超難関試験を突破した医学部生の頭脳は格別だ。なにしろ東大理三は日本一の偏差値77(ベネッセ調べ)を誇り、毎年の合格者数は100人ほどという狭き門。しかし、受験をクリアしても医学部は気が抜けず、特に医師になる医学科は試験や実習が続き、他学部に比べてもきわめてハードだ。直近20年を見ても、医学部医学科で東大野球部を卒部した強者は4人しかいない(医学部健康総合科学科は6人)。
彼らは、東大野球部と医学部(医学科)をどのように両立させたのだろうか。
まず紹介するのは、現役時代は投手として活躍した安原崇哲(2011年卒部・灘)。東大が理科三類の募集を始めた1962年以来、灘高校はきわめて多くの合格者を出しており、累計で800人を超える。これは2位の開成高校の2倍という断トツの数字だ。灘中高から現役で東大理科三類合格という、安原が歩いたコースは、日本の受験競争における最高峰と言えるだろう。
だが、小学生時代の安原少年は、自分がかくも優秀な頭脳を持っていることをまだ知らない。彼の興味の対象は、ひたすら野球だった。小学校低学年時代は、軟式野球チームのエースで四番。市大会で優勝すると硬式に興味を持ち、小学5年生のときには、超名門として知られる宝塚リトルリーグの野手として全国大会へ出場している。
「小さい頃は野球一筋の生活を送っていましたから、小学校卒業後は野球部が強い中学に入りたいと思い、関西学院を狙っていたんです。関学に入るには中学受験が必要と知り、受験勉強を始めたのですが、やっていくうちに、いつの間にか灘に入れそうだぞということになって、灘を受験することにしたんです」
「とくに東大にこだわっていたわけではない」
灘は中高一貫校であり、安原は6年間を通してエースピッチャーと四番打者として活躍し、高校時代はキャプテンを務めるなど中心的な選手だった。
「高2の秋大会で1勝したくらいで、全然勝てなかったですね。進学校なので、部員それぞれに温度差があり、同期十数名のうち5人が受験のために2年生で部活をやめました。残されたほうはきついけど、最後の夏は4人の3年生でなんとかやりました。1回戦、9対1で8回コールド負けでしたが」