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「アゴをケガしてなかったら…冨安健洋は水泳選手だったかもしれません」地元の小学校恩師が明かす“冨安が小1でサッカーを始めた日”
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph bySanchiku Kickers/Getty Images
posted2022/11/20 17:01
カタールW杯で日本代表の中心選手として期待される冨安健洋(24歳)。左の写真は小学生時代。サッカーを本格的に始めたのは小1のときだったという
もしあごのケガがなかったら……、もしマンションで走っている姿を辻さんが目撃していなければ……。いまは日本代表、プレミアリーグのアーセナルでプレーするまで駆け上がった冨安だが、サッカー人生のスタート時には、そんないくつかの偶然が重なっていたのだ。
「私がマンションで走っているのを見たのは、本当にたまたまです。幼稚園のときに遊び感覚でサッカーはやっていたみたいですが、あごのケガが癒えたら水泳を始め、いま頃はサッカー日本代表ではなく競泳の萩野公介さんのようにオリンピックで金メダルを取っていたかもしれません(笑)。お姉さんも学生時代は優秀な水泳選手だったと聞いていますし、タケならおそらくどのスポーツをやっても成功していたでしょうからね」
「夜9時まで個人練習」「“飛び級”で小6の試合に出場」
三筑キッカーズは1992年に、辻さんが公民館のクラブ活動の一環として立ち上げた少年団である。翌年にJリーグ開幕を控え、全国でサッカー熱が高まり始めている時期だった。飲料メーカーに勤務するサラリーマンだった辻さんはサッカー経験者ではなかったが、息子さんがサッカーをやりたがったとき、近所に少年団がなく自らチームを作る決断をした。
練習は三筑小学校で週3日(火、木、金)、夕方に1時間ほど(17~18時)。当初60名ほど入団した子どもたちには経験者がおらず、「開始4秒で点を入れられるなど、大差の負けばっかりでした(笑)」。それでも辻さんは熱心に指導を続け、土日は毎週のように練習試合を組み、多い時には1日3、4試合も行うなど年間の試合数は300近かった。
そんな三筑の街クラブに2005年入団したのが小1の冨安少年だった。チームができてから13年ほど、毎年多くのサッカー少年を見てきた辻さんから見ても「タケはとにかく向上心がすごかった」。冨安は小学校での練習後も近所の公園に場所を移して、街灯の明かりを頼りに、遅い時は夜9時くらいまで個人練習をした。そうして確実に成長し、小4になると“飛び級”で小6のトップチームの試合に出るようになる。
「練習が終われば、テレビゲームに夢中になる友達もいましたが、タケは興味がなかったみたいです。仲間がいない日も1人、公園でドリブルの練習をしたり、黙々と走ったり……。ウチの家内が仕事帰りにその様子を見て『まだ誰か練習していると思ったら、タケやった』とよく言っていましたから」
小4の冨安健洋vs小6の井手口陽介「負けていなかった」
福岡市内には多いときで約100の少年団があったが、三筑キッカーズはなかなか勝てずに苦労した。だが、冨安が高学年になった頃には上位5、6チームが出場できる県大会に行くのが当たり前になっていた。
「タケは昔から将来はプロになりたいという目標を持っていました。ただ10代で日本を飛び出し、ヨーロッパで活躍するとは思ってもみませんでした」