スポーツ・インテリジェンス原論BACK NUMBER
《引退》36歳畠山健介が語る“未熟”だった早稲田ラグビー期とジャパンで出会った“漢”たち「当時は全員がラガーマンでした」
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byKiichi Matsumoto
posted2022/06/22 11:00
現役引退を表明した元ラグビー日本代表の畠山健介(36歳)プロップ歴代最多キャップにふさわしく、“桜色”の背景で写真に収まった
「現役最後のシーズン、豊田自動織機ではノンメンバーになって、スーツを着て試合を観ることが多くなりました。プレーしていると気付かない視点、様々な角度からチームが視えるようになりました。そのことを早稲田の同期に電話で話したら、『俺はその感覚、大学の時から知ってたよ』と言われたんです。そこで初めて、自分がどれだけ視野や視座が狭かったのかを悟りました。
自分は1本目で赤黒を着て、とにかく勝ちまくって愛されたかった。勝つことで満たされたかった。自分は賢くて、強くて、面白い存在でありたかった。結局、自分のことにしか目がいかなかったんですよ」
大学生なら、それでいいのではないかとも思う。目の前のことに必死でいいじゃないか、と。しかし、いまの畠山はそれを良しとしてはいない。
「当時、4年生ノンメンバーでのミーティングがあって、荒ぶる……優勝を目指す上でお互いの本音を言い合おうと。そこで1人の同期が『俺、もうラグビー頑張れないかも』と言ったらしいんです。それって、早稲田の価値観では禁句かもしれない。でも、彼の心の叫びだったはずなんです。僕にはそうした目線がなかった。
なぜなら、自分は真っ直ぐにしか歩けない人間で、それを徹底すると他人との衝突が避けられない。だから、ぶつからない程度の浅い距離感を保ち、同級生と接していた。自分をさらけ出さないようにしていたんです。カッコつけて、上級生には受け入れられたとしても、同級生とはうまく距離感を取れない人間でした」
愛らしさを感じさせる巨体、フットワーク、そしてパスのスキルさえも軽快な畠山のプレーぶりから、私は器用な人間を想像していた。ところが、本人は人間関係では様々な葛藤があったと吐露する。
“職場”では「元気印」を求められた
「2008年に早稲田を卒業して、僕はサントリーに社員選手として入社しました。昼間は働いて、午後から東京・府中にあるグラウンドで練習するという生活です。練習のために仕事を離れなければならないこともありますから、現場には迷惑をかけます。だからこそ、ラグビー部員は職場では『元気印』という役割を求められてきました。時間と質に大きく貢献できないなら、明るさで職場を盛り上げる、というか。でも、僕はそれが苦手でした。働いてみると、自分を曲げなければいけない局面というのが出てくる。僕は折り合いをつけられなくて。この状態ではなかなか自分を表現することが難しく、『やっぱりラグビーで自分を表現したいな』と思って、契約選手になりました」
プロ選手、畠山健介の誕生である。
その少し前にはジョン・カーワンがヘッドコーチを務める日本代表にも招集された。当時の日本代表のことを畠山は愛情をこめて思い返す。
「すごい“漢”たちの集まりでした。全員が“ラガーマン”でした。今の時代、職業としてのラグビー選手は増えました。でも、当時は生き様としてラグビーをやっている人たちが日本代表には集まっていた感じです」
しかし当時、日本代表に招集される選手に対し、「行くだけリスク」という言葉が向けられたこともあったという。