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25歳だった石原慎太郎が新興ヤクザに謝罪した日「とにかくとにかく、申し訳ありません」ボクシング界を怒らせた“石原監督”の映画とは?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/03/12 17:04
今年2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎。写真は1956年、三島由紀夫(手前)と銀座の文藝春秋ビルで
ただし、これはおかしな話だと思う。本来批判されるべきは、映画に登場するような選手を酷使し搾取するジムや会長であり、前近代的な興行形態のはずである。にもかかわらず、そのことには眼をつむり、問題提起した作家を責めるのは本末転倒だろう。
結局、東宝と石原慎太郎本人が、「ジム関係者」を名乗るやくざに陳謝をする羽目となった。当時「銀座警察」と呼ばれた新興やくざの幹部だったと著書にはある。拙著でも触れたが、愚連隊をルーツに結成された銀座警察は、この時期、ボクシングジムの経営にも参画、興行も頻繁に打っていたのだ。
「とにかくとにかく、申し訳ありません。いろいろ誤解を招くようなことになって、まことに申し訳ありませんでした」と、25歳の石原慎太郎が膝に両手を付いて謝ったら、やくざの幹部はこう言い放った。
「そうだ、最初からそういやいいんだ。いいか、相手が田辺の父っつぁんと関係ある東宝だからこれですんだが、これが日活や大映だったらこうはいかねえぞ、誰か死んでたと思え」(同)
一度の謝罪で収まった背景には、この捨て台詞にあるように「田辺の父っつぁん」の顔が大きく作用していた。初代帝拳会長にして、第四代後楽園社長、初代JBCコミッショナーの田辺宗英である。戦前の右翼団体「愛国社」の長老格でもあった田辺宗英は野口家とも近い存在で、同時に田辺の異母兄は阪急電鉄創業者にして東宝創業者でもある小林一三だった。ここで言う「関係ある東宝」とはそのことを指す。
《私としてはあの出来事で少年以来の拳闘への情熱が消えはしないが、一段落したという感はどうにも否めない》(同)
そうあるのは、くだらないトラブルに嫌気が差し、ボクシング界との関わりが以前ほどではなくなったからなのは間違いないだろう。
その後、読売新聞の依頼でベトナム戦争を取材したことが契機となり、石原慎太郎は活躍の舞台を政治に求めるようになった。1968年に参議院全国区でトップ当選。政治家としてのキャリアをスタートさせる。
それでも、意外なことだが、格闘技との縁は切れなかった。
むしろ、政治家になったことで、一層緊密な関係を築くことになったのである。(文中敬称略)
<#3へ続く>