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25歳だった石原慎太郎が新興ヤクザに謝罪した日「とにかくとにかく、申し訳ありません」ボクシング界を怒らせた“石原監督”の映画とは?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/03/12 17:04
今年2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎。写真は1956年、三島由紀夫(手前)と銀座の文藝春秋ビルで
映画では、原作にないいくつかの場面が挿入された。会長がファイトマネーの多くをピンハネし、それどころか選手の恋人を寝取り、挙句にパンチドランカーに追い込むといった、卑劣で許し難く物悲しい結末である。この脚色も石原自身の創作なのは言うまでもない。おそらく、高校時代に観たアメリカ映画『罠』の影響があったのだろう。
もっとも、石原本人は《最初はフィルムをふんだんに使ってのフィルムコンクリイトのような作品のつもりでいたが、金がかかりすぎると普通の劇映画に変えさせられ、日頃私が選手や関係者から実際に聞き目にしたものを踏まえて「若い獣」というハードボイルドな、というより今見直すとかなり無残なプロットの作品だった》(『わが人生の時の人々』)と、どことなく他人事のように回想している。
そもそも、原作者である石原慎太郎が監督を務めることは、東宝社内で問題視された。東宝には「助監督経験のある者にしか監督をやらせない」という決まりがあったからだ。「石原慎太郎監督起用反対運動」が助監督会と東宝労組の間で沸き起こると、東宝争議の記憶も傷跡も生々しいこの時期、東宝の上層部は、二人の助監督を急きょ監督に昇格させ、事態の早期収拾を目論んだ。余談になるが、昇格した助監督の一人は『日本のいちばん長い日』『ダイナマイトどんどん』などで後年日本映画に名を遺す岡本喜八で、もう一人は『けものみち』『野獣死すべし』などの作品を送り出した須川栄三である。
そんないわくつきの初監督作品『若い獣』だったが、撮影場所を提供した野口拳では何の問題も起きず「みんなが協力を惜しまなかった」(三迫仁志)という。野口修いわく「映画の撮影なんて、別に珍しくなかった。目黒の駅から近くて交通の便がよかったから」とにべもない。ちなみにこの時分は、野口拳の会長であり創始者の野口進も健在だった。太陽族ブームの火付け役たる若き流行作家と、黎明期の拳闘家にして戦前の右翼テロリストでもあった野口進は、一体どんな会話を交わしたのだろう。
石原慎太郎の謝罪「とにかくとにかく、申し訳ありません」
しかし、野口家の反応は良好でもボクシング界はそうはいかなかった。これまで、会場には顔パスで入場し、選手からトレーナー、ジムの関係者、興行に関係するやくざに至るまで「先生」と遇してくれたのが、映画が公開されるやパタッとなくなった。それどころか「よくもあんな映画を撮りやがって」といった反論までぶつけられた。ボクシング界の暗部を詳らかにしたことが原因である。