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レアルvsバルサの獲得競争は1950年代から壮絶だった 「史上最も紛糾した」世界最強FW移籍の真相〈97歳日本人が回想〉

posted2022/03/07 17:02

 
レアルvsバルサの獲得競争は1950年代から壮絶だった 「史上最も紛糾した」世界最強FW移籍の真相〈97歳日本人が回想〉<Number Web> photograph by L'EQUIPE/AFLO

ディ・ステファノについては、レアル・マドリーとバルサが熾烈な獲得競争を繰り広げた

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ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明

ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明Fabian Rozo Castiblanco/Hiroaki Sawada

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まだフットボールが世界的に視聴可能ではなかった1940~50年代、コロンビアに“元祖海外組”の日本人選手、そして金満リーグが存在したという。ボゴタ在住のファビアン・ロソ・カスティブランコ記者の記事をベースに、ブラジル在住の沢田啓明氏に補足しながら翻訳してもらった(全3回の第3回/#1,#2も読む)

 1951年3月、ついに“海賊リーグ”が「終わりの始まり」を迎える。幹部がFIFA首脳と協議を重ね、「無償で獲得した外国人選手を、1954年末までに元のクラブへ返還する」と約束したのである。

 その代わりに、FIFAはコロンビアへの制裁を部分的に解除。クラブが国内外で開催される国際トーナメントに出場することを認めた。また、1949年以降、コロンビアのクラブが無償で獲得した外国人に関しては、1954年までは現在の所属クラブに保有権があることを認めた。

 この年の参加チームは、過去最多の18。ミジョナリオスが、2位に勝ち点11の大差をつけて2年ぶり2度目の優勝を達成した。34試合で31得点をあげたディ・ステファノが得点王に輝いた。

 この年の末、コロンビアサッカー協会が当時の国内最大のエル・カンピン・スタジアム(収容人員6万5000人)の改修を記念してアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの3カ国代表を招いて国際トーナメントを開催。唯一の日本人選手として同リーグに所属した道工薫はコロンビア代表に初めて招集され、パラグアイ戦の後半に出場した(結果は2-4で敗戦)。

「当時の代表は寄せ集めに近く、ほとんど練習をせず、集まって試合をしたらすぐに解散していた。それでも、初めて代表に招集されて非常に嬉しかった。1948年のプロリーグ初年度に優勝したことと並んで、キャリアにおける最大の誇りの1つだ」

薫は朝鮮戦争への従軍を志願した

 この年の末、薫がサンタフェを退団する。

 1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、コロンビアは南米から唯一、国連軍に参加していた。薫は日本の土を踏めるかもしれないと考え、朝鮮戦争への従軍を志願したのである。

 ただし、最前線で兵士として戦うのではなく、後方支援が主な仕事。韓国国内でも任務についたが、希望が叶って日本へ渡り、横須賀や佐世保の米軍基地に駐留した。

 韓国でも日本でも、世界各国の兵士とボールを蹴って交歓した。「イングランド、ブラジルなどのチームとは勝ったり負けたりだったが、韓国チームにはいつも大勝したよ」と笑う。

 最初の休暇に竹原へ行き、父・利雄の親族との面会を果たした。その後も、さらに二度、竹原を訪れたという。

【次ページ】 レアルとバルサが熱視線を送るきっかけになった一戦

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