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レアルvsバルサの獲得競争は1950年代から壮絶だった 「史上最も紛糾した」世界最強FW移籍の真相〈97歳日本人が回想〉
text by
ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明Fabian Rozo Castiblanco/Hiroaki Sawada
photograph byL'EQUIPE/AFLO
posted2022/03/07 17:02
ディ・ステファノについては、レアル・マドリーとバルサが熾烈な獲得競争を繰り広げた
一度は両クラブがこの案を了承し、ディ・ステファノはレアル・マドリーに加わった。ところが、その後、バルセロナが考えを変え、彼の保有権(の一部)をレアル・マドリーへ売却した。こうして、ディ・ステファノはレアル・マドリーの選手となった。
コロンビアの金満クラブからスペインの金満クラブへ移籍したのである。
ディ・ステファノと道工はその後、どんな道を歩んだのか
彼がレアル・マドリーに在籍した11シーズンに、レアル・マドリーはスペインリーグを8度制覇し、欧州チャンピオンズリーグ(CL)で5度優勝した。この間、バルセロナのリーグ優勝は2度に留まり、欧州CLは一度も制覇していない。
ディ・ステファノの存在がすべてとは言えないだろうが、スペインリーグで282試合に出場して216得点、欧州CLで64試合に出場して52得点をあげた稀代のスーパースターがいるかいないかが両クラブの成績に大きな影響を与えたのは間違いない。
コロンビアの“海賊リーグ”からやってきた男が、スペインの2大クラブの、そして世界のフットボールの歴史を変えたのである。
一方の薫はシーズン終了後、サンタフェを退団。海軍での任務に戻った。1954年は、“海賊リーグ”最後の年だった。最盛期には200人近い外国人選手がプレーしていたが、すでにその大半が帰国。参加チームの数は10まで減少した。
アトレティコ・ナシオナルが初優勝を飾り、ミジョナリオスは5位。サンタフェは最下位に沈んだ。
この年の10月、FIFAはコロンビアの代表とクラブへの制裁を解除した。
6年間の“海賊リーグ”で、ミジョナリオスが実に4度の優勝を遂げた。
“かつての金満クラブ”を経て33歳で引退
一方、薫は1956年、ディ・ステファノら外国人のスーパースターがいなくなったミジョナリオスに入団。この年に準優勝したが、1957年に最下位に沈む。この年、33歳で現役を引退した。
コロンビアリーグでは6年間プレーし、サンタフェで86試合、ミジョナリオスで26試合の計112試合に出場した。
得点はゼロ。しかし、本人は「チームの失点はかなり防いだ。ペデルネッタやディ・ステファノのシュートだって、何度もゴールから弾き出した。これは得点と同じ価値があるんじゃないかな」と誇らしげだ。
現役引退後は、バランキージャへ戻った。アトレンティコ県選抜の監督を務め、1960年に全国大会で優勝した。