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レアルvsバルサの獲得競争は1950年代から壮絶だった 「史上最も紛糾した」世界最強FW移籍の真相〈97歳日本人が回想〉
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ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明Fabian Rozo Castiblanco/Hiroaki Sawada
photograph byL'EQUIPE/AFLO
posted2022/03/07 17:02
ディ・ステファノについては、レアル・マドリーとバルサが熾烈な獲得競争を繰り広げた
1952年2月、レアル・マドリーが本拠地チャマルティン・スタジアム(その後、サンティアゴ・ベルナベウと改称)の改修を記念してミジョナリオス、スウェーデン王者ノルシェーピンを招いて国際トーナメントを開催した。
レアルとバルサが熱視線を送るきっかけになった一戦
ミジョナリオスは、ディ・ステファノの2得点でノルシェーピンと2-2で引き分けると、レアル・マドリー戦でもディ・ステファノが2得点を記録し、4-2で快勝した。
親善試合とはいえ、敵地の超満員の観衆の前で、レアル・マドリーから大量得点を奪って勝ったのである。当時のミジョナリオスがいかに強かったかがわかる。
この2試合でのセンセーショナルな活躍で、ディ・ステファノはレアル・マドリーとバルセロナから熱い視線を浴びるようになる。
なお、当時のレアル・マドリーの会長が、ホームスタジアムに名を残すサンティアゴ・ベルナベウだった。
この年のリーグ戦も、ミジョナリオスが優勝。ディ・ステファノが28試合で19得点をあげて2年連続の得点王となった。サンタフェは、15チーム中9位だった。
1953年に極東から帰ってきた薫は、サンタフェへ復帰する。すでに多くの外国人選手が帰国しつつあり、“海賊リーグ”は終焉に近づいていた。チーム数は12まで減少。ミジョナリオスが3連覇を飾り、サンタフェは4位だった。
「世界フットボール史上、最も紛糾した移籍」の真相
この年9月、ディ・ステファノは「世界フットボール史上、最も紛糾した」とされる移籍によってレアル・マドリーへ入団する。
前年2月にレアル・マドリーが主催した国際トーナメントでのプレーに衝撃を受け、レアル・マドリーとバルセロナが彼の獲得を熱望した。
まず、バルセロナの役員がブエノスアイレスへ飛び、彼がミジョナリオス入りする前に在籍していたリーベルプレートから保有権を買い取った。一方、レアル・マドリーはミジョナリオスから彼の保有権を譲り受けた。
こうして、2つのクラブがディ・ステファノの保有を主張する事態となった。両クラブもスペインリーグもこの問題を解決できなかったため、FIFAが介入。「1953~54年にレアル・マドリーでプレーした後、翌シーズンはバルセロナでプレーし、以後も毎年、所属クラブを変える」という調停案を提示した。