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〈発掘〉97歳日本人が70年前、世界No.1サッカー選手と直接対決していた!「ディ・ステファノは信じられないような…」

posted2022/03/07 17:01

 
〈発掘〉97歳日本人が70年前、世界No.1サッカー選手と直接対決していた!「ディ・ステファノは信じられないような…」<Number Web> photograph by L'EQUIPE/AFLO

1950年代におけるディ・ステファノは現代で言うメッシのような存在だが、そんな彼もレアル・マドリー加入前は“海賊リーグ”に所属したという

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ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明

ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明Fabian Rozo Castiblanco/Hiroaki Sawada

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まだフットボールが世界的に視聴可能ではなかった1940~50年代、コロンビアに“元祖海外組”の日本人選手、そして金満リーグが存在したという。ボゴタ在住のファビアン・ロソ・カスティブランコ記者の記事をベースに、ブラジル在住の沢田啓明氏に補足しながら翻訳してもらった(全3回の第2回/#1,#3も読む)

 日本人フットボーラーの道工薫(97歳)が在籍した、コロンビアにおける2年目のプロリーグは、1949年4月25日に開幕した。

 これに先立つ1948年末、当時、南米最高レベルと目されていたアルゼンチンリーグで異変が起きた。選手が待遇改善を求めてストライキを起こしたのである。選手組合とクラブ首脳らとの交渉は難航し、ストライキは長期化。トップ選手の多くが、国外でプレーする道を模索し始めた。

 このような状況で、1949年6月、ボゴタに本拠を置くミジョナリオスがアルゼンチン代表の攻撃の中心で「マエストロ」と呼ばれたアドルフォ・ペデルネッタ(ウラカン)を、所属クラブに移籍金を払わないままコロンビアへ連れてきて、入団を発表した。

 ミジョナリオスは、ペデルネッタにウラカンでの年俸の3倍余りを支度金として渡し、4倍以上の年俸をオファーしたと言われている。さらに、やはりアルゼンチン代表の若き超逸材ディ・ステファノとボランチのネストール・ロッシ(いずれもリーベルプレート)を、これまた移籍金を払わずして引き抜いた。

 これは、明らかなルール違反であり、犯罪行為だった。例えて言えば、客が商店へ行って、品物を勝手に持ち去るに等しい。ウラカンとリーベルプレートは激怒し、ミジョナリオスに猛烈に抗議するとともにFIFAへ提訴した。

市民のためのクラブのはずが“元祖金満クラブ”に

 こんなことを平然と、しかも続けざまに3度もやってのけたミジョナリオスとはいかなるクラブなのか。

 1937年、首都ボゴタの学生によって設立された。ほどなく市や市の有力者からの援助を受けるようになり、コロンビア人のみならずアルゼンチン人の有力選手を獲得して国内有数の強豪チームとなった。

 ところが、まだプロリーグが発足していなかったにもかかわらず、アルゼンチン人選手が多額の報酬を求めていることを地元紙がスクープ。「元来は市民のためのクラブだったのに、大金が飛び交うミジョナリス(成金、大富豪たち)となってしまったのか」と痛烈に批判した。

 市民の多くがこの批判に賛同し、クラブを「ミジョナリオス」と呼んで揶揄した。すると、1939年、当のクラブがこのような状況を逆手に取り、クラブの名称を「アスル・イ・ブランコ・ミジョナリオス」(青と白の成金、大富豪たち)と変えた。そして、アマチュアリーグで圧倒的な強さを発揮し、連戦連勝だった。

 さらに1946年、クラブ名をクルビ・デポルティボ・ロス・ミジョナリオス(通称ミジョナリオス)に改称して現在に至っている。

 つまり、このクラブには財力で有力選手を買い漁る伝統があったのだ。元祖“金満クラブ”と呼んでいいだろう。

【次ページ】 当時世界No.1のディ・ステファノすら強奪した

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道工薫
アルフレッド・ディ・ステファノ
ミジョナリオス

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