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高木菜那らが所属、名門・日本電産サンキョーが突然の廃部…選手も当日に知らされる“異常事態”はなぜ起こった?〈4月入社予定の高校生も〉
posted2022/03/02 17:03
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph by
JIJI PRESS
スピードスケート界に衝撃的なニュースが流れた。
3月1日、日本電産サンキョースケート部が3月31日をもって廃部となることが発表されたのだ。
「近年強いリーダーの不足に加えて、ここ数年スケート選手を目指す若者も減り、そのレベルも落ちてきたことから、企業がスピードスケート競技の発展に貢献するという当初の目的についての展望が持てないと判断し」、廃部を決定したという。平昌五輪で2つの金メダル、北京でも団体追い抜きで銀メダルを獲得した高木菜那ら8名の選手が現在も在籍していることや、何よりもスピードスケート界屈指の名門が消えることに「まさか」という驚きの声が上がっている。
清水宏保らトップ選手を輩出してきた名門
もとの社名は三協精機で、1957年にスケート部が正式に発足した。現在の社名を冠した「日本電産サンキョースケート部」になったのは2005年だ。
1960年のスコーバレー五輪に3選手が出場したのを皮切りに、北京五輪まで必ず所属選手を五輪日本代表に送り出してきた。そのうち、メダリストは5名。1998年長野五輪500m金メダル、1000m銅メダルなど輝かしい実績を残す清水宏保をはじめ、1992年アルベールビル五輪1000mで銅メダルの宮部行範、2010年バンクーバー五輪500m銀メダルの長島圭一郎、銅メダルの加藤条治、そして高木である。
メダリストのみならず、近年だけ見ても島崎京子、大菅小百合、吉井小百合らそうそうたる名前が並び、五輪代表はのべ50名を超える。部の日本スピードスケート界での立ち位置がこれらの事実からもうかがえるだろう。
過去もあった“存続危機”から一変した空気
一度は会社の業績不振により存続の危機に陥ったこともある。そのときは、日本電産の子会社となり、また同社の創業者であり現在も会長を務める永守重信氏の決断で存続が決まった経緯がある。