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羽生結弦も使用した鍵山優真の練習拠点「横浜銀行アイスアリーナ」は、力道山が最後に相撲をとった場所だった?
posted2022/02/17 11:00
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph by
Keisuke Takagi
北京五輪のフィギュアスケート団体戦で銅メダル、個人戦で日本勢最高となる銀メダルを獲得し、18歳の新星・鍵山優真がニューヒーローに躍り出た。
彼の地元の横浜市では2月10日、市営地下鉄の車内アナウンスで銀メダルを獲得を報じたり、出身である六角橋中学同窓会が製作した横断幕が早々に六角橋商店街(横浜市神奈川区)のゲートに飾られるなど大きな盛り上がりを見せている。
東京方面から出発したJR東海道線や京浜東北線が横浜駅に到着する直前、右側に見える横浜銀行アイスアリーナ(神奈川スケートリンク)が鍵山の練習拠点。ここよりスケートの話からやや脱線してしまうのだが、この横浜銀行アイスアリーナは日本のプロレス界にとって、「歴史の分岐点」ともいえる重要な場所であることをご存知だろうか?
日本最古の室内リンク「神奈川スケートリンク」の跡地
現アイスアリーナは、日本最古の室内リンクであった旧神奈川スケートリンクが2014年6月をもって閉館し、その跡地に建設され、2015年12月21日にオープン。同時に横浜銀行がネーミングライツを取得し、現行の「横浜銀行アイスアリーナ」という名称になった。
この地にスケートリンクが定着した歴史はかなりの紆余曲折がある。まず横浜銀行アイスアリーナと、それを含む現在の反町公園一帯は、関東大震災(1923)後の復興事業とともに、昭和初期に「横濱青木町遊郭」となった。公園に沿って海へと流れ込む滝の川は住宅街でこそ暗渠化されているが、アイスアリーナを越えたあたりで地表へと顔を出し、入口付近にある橋の欄干には「昭和二年九月 復興局建造」と刻まれている。
まだ東海道神奈川宿の名残りが残っていた昭和5(1930)年当時、横濱青木町遊郭は23軒ほどの妓楼(ぎろう)が軒を連ね、約170人ほどの娼妓が集う、なかなか大きな遊郭だった模様だ(昭和5年刊の全国遊郭案内=日本遊覧社より)。しかし昭和20(1945)年5月29日の横浜大空襲によって一帯は焼け野原と化す。
終戦後の昭和24(1949)年3~6月に、野毛山公園とこの広大な遊郭跡地と2会場にて開催されたのが、当時の国家的イベント「日本貿易博覧会」だった。会場には昭和天皇と皇后陛下もご来場。記念切手も発売され、戦災により廃止されていた東急東横線の新太田町駅(東白楽~反町間に存在していた)も開催期間中のみ、臨時で復活していたことからも、大きなイベントだったことがわかる。