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羽生結弦も使用した鍵山優真の練習拠点「横浜銀行アイスアリーナ」は、力道山が最後に相撲をとった場所だった? 

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高木圭介

高木圭介Keisuke Takagi

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posted2022/02/17 11:00

羽生結弦も使用した鍵山優真の練習拠点「横浜銀行アイスアリーナ」は、力道山が最後に相撲をとった場所だった?<Number Web> photograph by Keisuke Takagi

北京五輪フィギュアスケート男子シングルで銀メダルに輝いた鍵山優真が活動拠点とする「横浜銀行アイスアリーナ」

 日本貿易博覧会の反町会場で「芸能館(演芸館)」として使用された、ゆるやかなカマボコ型屋根の建物は、もともと茨城・霞ヶ浦にあった旧日本海軍航空隊の格納庫屋根部分を移設して建造されたもの。そのまま壊してしまうのももったいないとあり、博覧会終了後には「神奈川体育館」として使用されることに。

 昭和26(1951)年からは冬場にスケートリンクとしても使用され、昭和30(1955)年の神奈川国体ではバドミントン会場となった。

 観客席も含むスケートリンクとしてはやや手狭だったのだろう。やがてはアーチ型の建物と山型の切妻屋根の建物とを強引に合体させる形でスペースを拡張。そして昭和34(1959)年からは不動産登記上の名前こそ「財団法人神奈川体育館」のままではあるものの、「神奈川スケートリンク」として市民に親しまれ、2014年の閉館、建て替えに伴う取り壊しまで多くの市民、スケート選手に利用され続けた。

 東日本大震災の折には、仙台での練習拠点リンクが使えなくなった羽生結弦が一時的に拠点にしていたことも記憶に新しい。

スケートリンク化する以前はプロレスや相撲で賑わう

 本題はここから。完全にスケートリンク化する以前の神奈川体育館時代の話だ。この頃は一般スポーツだけではなく、プロレスや大相撲の巡業、プロレス普及以前に日本国内で興行されていた柔拳(柔道と拳闘を合わせた異種格闘技戦のようなもの)の会場などとして使用されていたらしい。

 筆者が地元のお年寄りから聞いた話によると、大相撲巡業の際には、それぞれ取組を終えた力士たちが、目の前の国道1号を渡りつつ、東横線(当時は高架だった)のガードをくぐり、新太田町駅付近にあった銭湯で汗を流しつつ、次なる巡業地に向かっていったそうである。

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