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羽生結弦も使用した鍵山優真の練習拠点「横浜銀行アイスアリーナ」は、力道山が最後に相撲をとった場所だった? 

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高木圭介

高木圭介Keisuke Takagi

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posted2022/02/17 11:00

羽生結弦も使用した鍵山優真の練習拠点「横浜銀行アイスアリーナ」は、力道山が最後に相撲をとった場所だった?<Number Web> photograph by Keisuke Takagi

北京五輪フィギュアスケート男子シングルで銀メダルに輝いた鍵山優真が活動拠点とする「横浜銀行アイスアリーナ」

 事件が起きたのは昭和25(1950)年9月10日のこと。大相撲の二所ノ関一門による地方巡業初日のことだった。

 巡業初日は東神奈川。さまざまな資料でも会場名は見当たらないのだが、当時の東神奈川駅周辺で大相撲の興行を行える場所といったら、この神奈川体育館しかないと思われる。夜汽車にて向かう翌日の巡業先は愛知県の蒲郡、続いて大阪入りするというスケジュールが組まれていた。

 これに参加していた関脇・力道山は、取組の前か後かは不明なのだが、当時の二所ノ関親方(元関脇・玉ノ海)と大喧嘩をやらかし、巡業用の相撲列車には乗らずに日本橋浜町の自宅へと帰ってしまう。そして、深夜未明に力士の象徴である髷を自らの手で切り落とし、大相撲と決別したのだった。

 三役力士に廃業まで決意させた大喧嘩の理由は諸説が言い伝えられるものの、当の力道山も二所ノ関親方も一切を語らぬまま、文字通り「墓場まで持っていってしまった」ため、現在も真相は不明……。大喧嘩が取組後だったとしたら、この神奈川スケートリンク(神奈川体育館)は「力道山が最後に相撲をとった場所」ということになる。

力道山、羽生結弦、そして鍵山優真が羽ばたいた場所

 翌昭和26(1951)年にプロレス転向後も、力道山は何度かこの神奈川体育館でプロレス興行を行った記録が残るが、キャパが1500人程度だったためか? それほど使用頻度は多くない。

 昭和37(1962)年に横浜文化体育館が完成するまで、横浜市内のプロレス会場といえば、同じく日本貿易博覧会遺産であった野毛山公園のプールや関内のフライヤージム、ビッグマッチとなれば現在の横浜スタジアムと同じ場所にあった横浜公園平和野球場(接収時の名称はルー・ゲーリック・スタジアム)あたりが定番だった。

 昭和を代表するヒーロー・力道山がプロレス転向するきっかけとなり、平成生まれの羽生結弦や、21世紀生まれの鍵山優真が世界へと羽ばたく練習拠点とするのが、同じ場所というのが何とも意外。

 そんな歴史を知ってか知らぬでか? つい最近(2021年12月5日)も、スケートアリーナ横の反町公園で大日本プロレスが観戦無料の「商店街プロレス」を実施し、物珍しさや物見遊山も込みで集まってきた地元民を大いに盛り上げていた。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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