箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
「5区で電波が繋がるか…」箱根駅伝の初代実況者が語る真実「技術者たちはテントで冷えた弁当暮らし。それでも文句を言わなかった」
posted2022/01/25 17:01
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
KYODO
1987年、1月2日。いよいよ「第63回箱根駅伝」の生中継の幕が開いた。
過去の駅伝映像が白黒で流れ、そこに小川さんの落ち着いたナレーションがかぶさっていく。
「大正9年の第1回の開幕以来、若きランナーたちの心を捉え続けてきた箱根駅伝。早春の熱い風となったランナーたちは、東海道に幾多のドラマを生んできました……」
「150人の青春が今、スタートしました」
普段は原稿を事前に用意したりはしないが、この時ばかりは入念に準備をして臨んだ。
「読むと喋るは違いますからね。プロが聞けば、用意した原稿かどうかはすぐわかる。だからあまり文章を作るのは好きじゃないんですけど、やっぱり箱根に関してはきれいに格好良く、粋にやりたいという気持ちがあった。だからスタート時、また3区の海が見えるところではこう言おうと。いくつか文章を用意しました」
スタートの号砲が鳴ると、自然と思いが口をついた。
「150人の青春が今、スタートしました」
箱根駅伝は単なるスポーツ中継ではない。それを超える人間ドラマであると、当時の実況はそう語りかけてくるようだ。
あの監督たちもかつては箱根駅伝ランナーの1人だった
35年前の映像には、今の駅伝ファンが懐かしむであろう、なじみの人物の姿もある。この年、駒澤大の4年生ながら27歳になっていたため年齢制限に引っかかり出場を果たせなかった大八木弘明(現駒澤大監督)は、コーチの立場でジープに乗って後輩たちに檄を飛ばしていた。大東文化大の只隈伸也、東海大の両角速、筑波大の弘山勉ら、後に母校の監督となる彼らも、当時は学生ランナーの1人でしかなかった。
この年、予選会をぎりぎりの6位で通過した創部2年目の山梨学院大が初出場を果たしているが、2年生が1人、あとは全員が1年生という、今では考えられないようなメンバー構成だった。