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“巨人軍の将来の大器”と評されたジャイアント馬場だったが… 「絶望しました」10代後半で宣告された体調の異変とは 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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posted2021/12/20 11:03

“巨人軍の将来の大器”と評されたジャイアント馬場だったが… 「絶望しました」10代後半で宣告された体調の異変とは<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

存命時のジャイアント馬場さん。巨人軍入団後、有望な若手と見られていたが……

馬場だけが課されたトレーニングとは

 馬場たち新人は巨人軍多摩川グラウンドの対岸にある「読売巨人軍新丸子寮」に入寮。2月には宮崎県串間市で春季キャンプが始まった。加藤克巳はこの串間キャンプで初めて馬場正平と対面している。

「馬場は大きなどてらを着ていました。でかいのでびっくりしました。動きが鈍かったのは覚えています」

 春季キャンプ終了後、選手たちは一、二軍に振り分けられたが馬場など新人は当然、二軍になった。

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 巨人の一軍投手コーチの谷口五郎は週に3回くらい、朝9時頃に合宿所に来た。加藤克巳は当時の印象をこう回想している。

「谷口さんは来ると『馬場!』と呼んで、合宿の前の土手を30分くらい駆け上がらせるんです。足腰が弱かった馬場だけにそれをやらせた。もう汗びっしょりになって、夏なんか靴に汗が溜まって、田んぼの中を走ってるみたいにじゃぼじゃぼ音がしました。寮の二階から谷口さんがやってくるのを見つけて誰かが『谷口さん、来たぞ!』というと、馬場が窓から顔を出して見ていました。よっぽど嫌だったんでしょうね」

 前述のように、谷口はスカウトを介して馬場を獲得した指導者だ。前年11月の馬場の身体検査にも立ち会っている。この時から「馬場を鍛えてやろう」と思っていたのだろう。

「馬場は野球の基本的な技術が身についていなかった」

 馬場正平が初めて硬球を握ったのは高校2年生の春だ。7月には甲子園の地方予選に出場して敗退し、その秋には巨人軍入団が決まっている。春季キャンプの時点で硬式野球をしたのはわずか1年足らず。加藤克巳は「馬場は野球の基本的な技術が身についていなかった」と語っている。

「当時の練習は、午後一時からでした。午前中はありません。ランニングして、キャッチボール、トスバッティング、フリーバッティング、シートノックして、投手は投球練習をして。今みたいに打者はこれ、投手はこれという細かなメニューはありませんでした。

 雨が降ると室内練習場はありませんでしたから、丸子橋のガード下で体を動かした程度で終了です。みんな雨が降ったら喜んでね。ぽつん、とくると『降れー、降れー(雨を)引っ張れー』と言ったものです。

 でも雨で試合中止になると、一軍のローテーションピッチャーがやってくる。別所毅彦さん、大友工さん、中尾碩志さん。僕はそういう投手に指名されて、丸子橋のガードの下で球を受けました。だから僕は雨になってもあまり楽はできなかった。

 馬場とはよくキャッチボールもしましたが、スナップスローができなかった。指の腹でボールを投げていた。まだ試合で投げられる状態ではなかった。シーズンが始まると僕らは二軍戦に出かけました。巨人は人数が多いから、ゲームに行かない人が10人くらいいた。1年目は馬場も試合にはあまり同行しなかった。行かない人は何をしていたんだろう、と思いますね」

初年度の登板は二軍の2試合だけだった

 それでもこの年6月22日、馬場は川崎球場で開かれたイースタン・リーグ、大洋との3回戦で先発している。おそらくはこれが二軍のデビュー戦だろう。捕手は森昌彦だった。

【次ページ】 「将来の大器と藤本二軍監督は太鼓判を押している」

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