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ジャイアント馬場は「2階から球が落ちてくる」コントロール投手だった? “巨人の名スカウト”や王貞治らの評価とプロレス転向
posted2021/12/20 11:04
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kyodo News
現在流布している馬場正平の伝記では、馬場正平は1957年秋に視覚に異常をきたし、その年の12月に手術をしたとなっているが、実際には1年早い1956年12月に東京大学附属病院で手術をしている。
東京大学医学部脳神経外科に残る記録によると、馬場正平の手術は、1956年12月22日に行われた。手術は、午前10時15分に開始、11時35分終了。麻酔は、午前9時40分開始、11時40分終了。右前頭開頭術。柔らかい腫瘍を吸引で摘出。術者は、清水健太郎教授、助手は田島、松本両医師、病理医は、所安夫医師だった。
執刀医は東大野球部OBだった
現役の脳神経外科医によれば馬場の手術にはいくつか疑問点があるという。
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一つは、当時、東京大学医学部教授と言えば雲の上の存在で、診察や手術には国会議員など名士の紹介状が必要だったはずだ。無名の十代の野球選手の手術などするはずがないということだ。
これは簡単に説明がつく。
清水健太郎は東京大学時代は野球部に所属し、東大が「東京五大学(六大学の前身)」に加盟した時には、東武雄とバッテリーを組んでいた。東武雄は東京大学野球部史上「名投手三羽烏」と呼ばれる大エースで終戦直後に戦病死するが、清水はその女房役だったのだ。その後、東京大学野球部監督、野球部長を歴任、馬場の手術をした時期は東京六大学野球の連盟長だった。1年後の1957年秋には、首位打者に輝き、六大学記録の8本塁打をマークした長嶋茂雄を表彰している。清水健太郎は野球人として馬場の病気に無関心ではいられなかったのだ。
馬場の身長は伸び続けていた
もう一つ、馬場の手術は開頭手術だったが、当時、開頭手術は「開け閉め2時間」と言われ、非常に困難が伴う手術だった。しかし馬場の手術はわずか1時間20分。今のようにCTや顕微鏡を使ったマイクロサージェリーもない時代、どうやって手術を行ったのか?これは今もってわからない。ただ、この手術によって馬場は失明の危機は免れたものの、身長の伸びは止めることはできなかったのではないかと思われる。
中学で185cmに達した馬場の身長は巨人に入団した時点では191cm、巨人を退団した時点では200cm、プロレスラーになってからは209cmとなっている。
プロレス界では多少体のサイズを誇張することがあるが、馬場の身長が伸び続けていた可能性は高い。
1957年2月刊の「ベースボールマガジン」にも「馬場投手の大手術」という記事が載っている。